歴史でひもとく「日本人と温泉」(2) 信玄・謙信・政宗が愛した「隠し湯」とは

 戦に明け暮れた戦国時代、武将たちは、戦で負った傷を人知れず癒やすために「隠し湯」を求めていた。

「隠し湯」といえば武田信玄が有名だが、どこまで本当だったのかは、文献的史料に乏しく怪しいものも少なくないと、河合氏は言う。

 昨年「戦国武将を癒やした温泉」を上梓し、歴史と温泉について取材している上永哲矢氏は、

「数ある信玄の隠し湯の中でも唯一、湯村温泉(山梨県)は、武田家の軍学書である『甲陽軍鑑』に載っている温泉です。また同じく山梨県の下部温泉には、上杉謙信との合戦のあと、野戦病院のように信玄から湯治場として認可されたという書状が残っています」

 山梨の笛吹川の上流にある川浦温泉も隠し湯だったのではと、戦国武将に詳しい芸人の桐畑トール氏は言う。

「武田四天王の1人で、武田の赤備え軍団を率いた山縣昌景という武将が、信玄に温泉開発を命じられた文書(下知状)が地元の寺に遺されていて、現在でも『山県館』という温泉宿(創業は安政3年〈1856〉)があります。ここの女将は昌景の子孫だということです」

 一方、信玄のライバルだった上杉謙信にも、信玄に対抗して「謙信の隠し湯」という温泉がいくつかある。

 上永氏は、いずれも伝説・伝承のレベルで確かなことはわからないとしながらも、その可能性を示す。

「北信濃の小菅神社には謙信が信玄との第3次川中島の合戦での戦勝を祈願したという文書が残されていて、そこに『北に温泉あり』と書かれているのが野沢温泉(長野県)です。一方の武田信玄もこの地を治めていた武将に戦況を伝えるために、『景虎(謙信)、野沢の湯に至りて陣を進め‥‥』(市河家文書)と書いて家臣の山本勘助に手紙を託しています。小菅神社と野沢温泉は約5キロの至近距離にあり、謙信が拠点にしていた飯山城は小菅神社のすぐ南方にありましたから、湯治場にした可能性はあると思います」

 東北地方の雄・伊達政宗といえば、仙台というイメージだが、上永氏がイチオシするのは、山形県の小野川温泉だ。

「政宗はもともと出羽・米沢(山形県)の生まれです。家督を継いで5年後の23歳。米沢の城下を馬で駆けていた時、突如馬が暴れ出し馬から飛び降りた際に骨折、その傷の治療で2カ月ほどリハビリしたのが小野川温泉と伝わります。

 また、真田昌幸の長男・信之ゆかりの湯が四万温泉(群馬県)。慶長3年(1598)に建てられた当地の薬師堂には『沼田城主 真田信幸(信之)の武運長久を祈願して』と、書かれた棟札があります」

 信之の父の真田昌幸は、関ヶ原の戦いの時に、次男の信繁(幸村)と共に西軍につき、関ヶ原で西軍が敗れると信繁と共に高野山に蟄居させられるが、東軍についた長男の信之には上田、沼田の所領が与えられ真田家は存続する。その後、上田から移封された松代にも松代温泉があり、93歳までの長寿を全うした秘訣は、こうした温泉の御利益にあったのではないだろうか。

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「日本史の裏側」(扶桑社新書)。

上永哲矢(うえなが・てつや)歴史writer/温泉随筆家。神奈川県出身。日本をはじめ中国や台湾などの史跡を取材したルポを中心に手がける。著書「戦国武将を癒やした温泉」(天夢人/山と渓谷社)「三国志その終わりと始まり」(三栄)など。

桐畑トール(きりはた・とーる)72年滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演、「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。

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