有馬温泉は、子宝の湯としても有名だが、江戸中期になると有馬温泉の湧出量やお湯の温度が下がって、当時、新たに名湯として注目され始めた城崎温泉に、天下一の名湯の地位を奪われそうになった。
その原因を突き止め有馬温泉の危機を救ったのが、大坂の医師・柘植龍洲という人物。
松田忠徳氏の「江戸の温泉学」(新潮社)によれば、たびたび有馬に通っていた龍洲は『温泉論』という本を出版、有馬温泉の効能を科学的に分析し、子宝に恵まれるには女性の子宮内を温めることだと確信し、湧き出す温泉を漏斗のような形の器具(龍筩)で集めて、女性の大事なところを温め洗浄する器具を発明した。その器具は「かくし上戸」と呼ばれ、湯女たちが湯上がりの宴席で歌った「有馬節」の一節には、そのかくし上戸が色っぽくユーモラスに謳われている。
「有馬名物大きな筆をぶらぶらと、こたね(子種)をばいのる薬師の湯つぼにて、またぐらひろげふくふくと、湯花のあたる心地よさ、かくし上戸は幕の内、こつぼ(子壺)へいれ玉う」
以来明治15〜16年頃まで、女性客に貸し出され盛んに使用されたと「有馬温泉史話」にあるという。
子孫繁栄を願うために、子宝の湯は全国各地に存在した。中には、男根をかたどったご神体(金精様)を祀る温泉や信仰も各地に見られる。巨大なイチモツを若い女性がさすったり、抱えたりするのは、おおらかでユーモラスな風景だ。
しかし、戦国時代や徳川時代には、跡取りが生まれなければ、大名ならお家取り潰し、庶民でも先祖代々の土地や家が途絶えてしまうのだから、現代では想像もできないほどの切実な願いだったのだ。
豊臣秀吉は、側室を何十人もかかえながら、正室の寧々も子宝に恵まれず、唯一懐妊したのは、淀殿(茶々)だけだったが、淀殿と有馬温泉に通ったという記録はない。