歴史でひもとく「日本人と温泉」(4) 夜の相手もした「湯女」は泡姫の原型

 時代が下ると、有名温泉地はお色気満載なんでもありの歓楽街としても発展していく。そこには男と女を巡る人生のヒトコマもあり‥‥。

 戦国武将の温泉はもっぱら傷や病を癒やすのが目的だったが、傷を治すどころか大失敗し命を失った武将もいた。桐畑氏が解説する。

「織田家の古参の武将で、桶狭間など数々の戦を信長と共に戦って、織田家筆頭家老にまで上り詰めた佐久間信盛、その人です。信盛は、石山本願寺攻めを信長に命じられながら、その攻略に4年もかかってしまうなど、信長から19カ条の折檻状=ダメ出しが出され、高野山に追放!って言われます。さらに高野山からも出て行けと言われ、熊野を放浪中に体調を崩し、山中の温泉に入ろうと崖を降りていく時、『あれっ!』と足を滑らせて崖から転落、落命してしまったのです。今の会社でいえば副社長=ナンバー2だった人が左遷され、文字通り転落した惨めな最期でした。ここでの教訓は、温泉は確かに滑りやすいから危険だということですかね(笑)」

 入浴というのは、歴史的にみるとじつは危険がいっぱい。

「例えば鎌倉幕府の2代将軍の源頼家は伊豆の修善寺に追いやられて入浴中に北条の刺客に殺されています。頼家のお父さんは源頼朝ですが、頼家からみてお祖父さんにあたる義朝という人も平家と戦って逃げる最中に、味方だと思っていた人物の家で入浴中に殺されています。また、家康が江戸に入る前の江戸城を造った太田道灌は、主君の扇谷上杉をしのぐほどの実力をつけてにらまれていたので、その労をねぎらうという名目で扇谷定正の館に招かれて、入浴後に風呂場で暗殺されてしまいます。そう考えると、信玄の隠し湯なんかは絶対に敵に知られちゃ困るわけで、記録がないのは当たり前なのかも知れません」(桐畑氏)

 温泉地には、湯女と呼ばれる女たちがいて、有馬温泉などでは当初、温泉の入り方指南や入浴時間などの管理をしていたが、江戸時代に温泉が大衆化すると、次第に湯上りの宴席で客の相手をしながら、唄を歌ったり客の求めに応じて夜のお相手も務める遊女たちも現れることになる。

「江戸などの都会では、銭湯にもそういう湯女が登場しますが、温泉地より価格も安かったんでしょうね、大流行して、江戸時代には湯女禁止令が出たりするんですが、そういう違法風俗というのは、いくらお上が規制しても、形を変えたり名称を変えたりして生き残っていくのは昔も今も変わらないんですね。幕府公認の遊郭だった吉原も現代になると湯女の現代版とでもいえるソープ嬢にとって代わられているというのも、歴史の面白いところです」

 ところで、温泉の宴会芸で一世を風靡した「野球拳」があるが、桐畑氏によると、

「♪野球すぅるなら、こういう具合にしやしゃんせ、アウト、セーフ、よよいのよい~でじゃんけんをして、負けた方が服を1枚ずつ脱いでいくという、お座敷芸が広まりました。昭和44年から放映されたコント55号の番組で萩本欽一さんと坂上二郎さんが若い女性タレントを相手に下着になるまでじゃんけんをして大人気になったのは、年配の方なら知っているでしょう。もともとは、明治時代にベースボールに野球という和名をつけたといわれる俳人・正岡子規の地元松山の伊予鉄道の野球部が、大正12年に試合に負けて懇親会で披露した踊りが始まりで、服を脱いだりするものではなかった。それ以前にお座敷芸で芸者衆を相手に服を脱ぐものがあって、それと合体して全国のお座敷や宴会でやられるようになったようです」(桐畑氏)

 日本史の中で、さまざまに登場する「温泉」。かつては「野戦病院」であり、「禊」の場でもあったが、今も昔も男と女が鎧と衣を脱ぎ捨て、「本性」をさらす場に変わりはないようだ。

桐畑トール(きりはた・とーる)72年滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演、「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。

ライフ