新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【20】馬場と猪木「オールスター戦会見」での舌戦
1979年3月8日、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の会談が東京・六本木の中華店「梅紅」で実現した。2人で同じテーブルに着くのは71年11月に日本プロレスの改革について話し合って以来、実に7年5カ月...
1979年3月8日、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の会談が東京・六本木の中華店「梅紅」で実現した。2人で同じテーブルに着くのは71年11月に日本プロレスの改革について話し合って以来、実に7年5カ月...
日本プロレス界は73年4月に老舗の日本プロレスが崩壊して国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの3団体時代になり、新日本vs全日本&国際という形で展開されていた。 新日本と国際は、アントニ...
1977年、新日本プロレスはアントニオ猪木と全米プロ空手世界ヘビー級王者ザ・モンスターマン、モハメド・アリからダウンを奪ったことで話題になったプロボクサー、チャック・ウェップナーとの「格闘技世界一決...
1976年は新日本プロレスが格闘技路線、全日本プロレスは純プロレス路線と、完全に道が分かれた感があったが、アントニオ猪木はジャイアント馬場と全日本を攻撃することによって己の存在感をアピールできること...
1976年、アントニオ猪木は72年ミュンヘン五輪柔道の重量級&無差別級金メダリストのウイリエム・ルスカ、プロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの異種格闘技戦を実現させて、プロレスの枠を飛び越...
1975年の下半期には「全日本プロレス・オープン選手権大会」と「力道山13回忌追善特別大試合」への出場拒否で、ジャイアント馬場に追い込まれる形になってしまったアントニオ猪木だが、密かに76年の新たな...
1974年のアントニオ猪木を軸とした日本人対決ブームの中で「邁進する猪木、逃げる馬場」のイメージを作られたジャイアント馬場だが、翌75年10月30日の蔵前国技館で大木金太郎の挑戦を受けて立って快勝す...
1974年の日本プロレス界は、アントニオ猪木の実力日本一路線で独走態勢に入った新日本プロレスに対して、全日本プロレスは年末にジャイアント馬場が日本人初のNWA世界ヘビー級王座奪取の偉業を成し遂げて一...
アントニオ猪木と新日本プロレスは実力日本一路線で1974年に大躍進したが、前年73年4月からスタートしたNET(現・テレビ朝日)「ワールドプロレスリング」の視聴率を押し上げた功労者は〝インドの狂虎〟...
ストロング小林、坂口征二、大木金太郎との超大物日本人対決を次々と実現させ、実力日本一に邁進することで、1974年に大躍進したアントニオ猪木と新日本プロレス。 猪木は「日本選手権開催には馬場さんの...