1976年、アントニオ猪木は72年ミュンヘン五輪柔道の重量級&無差別級金メダリストのウイリエム・ルスカ、プロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの異種格闘技戦を実現させて、プロレスの枠を飛び越えた。アリ戦は不評を買ったが、猪木は世界に知られるプロレスラー、格闘家になった。
しかしジャイアント馬場は、そんな猪木を尻目に全日本プロレスの未来に向けての準備を着々と進めた。
全日本旗揚げ前、馬場は38歳で日本のプロレスからは引退して、ハワイを本拠に漫遊がてら米マットを1〜2年サーキットするという人生設計を立てていたが、76年1月23日にその38歳となり、後継者育成に本腰を入れたのである。
年明け早々、ジャンボ鶴田を世界のスーパースターに成長させるべく「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」に取りかかり、ファン投票によって対戦者を公募。投票総数は8万通を超え、500人近い名前が挙がった。
その中から候補選手として選出したのがNWA世界王者テリー・ファンク、AWA世界王者ニック・ボックウィンクル、WWWF王者ブルーノ・サンマルチノ、猪木、ラッシャー木村、バーン・ガニア、ビル・ロビンソン、ドリー・ファンク・ジュニア、ルー・テーズ、ハーリー・レイス、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・ザ・ブルーザー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、大木金太郎の15選手だ。
そして3月10日、日大講堂における第1戦の相手に決まったのが、AWAの帝王ガニアである。全米のトップレスラーを招聘していた全日本だが、当時としてはガニアが全日本に来るのはありえないことだった。
なぜなら70年代のアメリカのプロレス界は全米のプロレス・テリトリーの約4分の3をカバーするNWA、ミネソタ州ミネアポリスを拠点に北部地区をテリトリーにするAWA、ニューヨークを拠点に北東部をテリトリーにするWWWFの3つの組織に分かれていたからだ。
馬場がNWAの有力メンバーなのに対して、ガニアは60年5月にミネソタ地区のプロモーターたちとNWAを脱退してAWAを設立した男。日本では国際プロレスと業務提携した。
そのガニアの招聘に成功したのは、当時のAWAがNWA、WWWF相手にマルチ外交に方向転換していたことと、75年末で国際との業務提携が終了したことが大きい。
この時、ガニアは49歳。前年11月にAWA世界王座をニックに明け渡していたが、まだまだトップ選手。そのガニアを相手にジャーマン・スープレックスで1本を奪い、1─1の引き分けに持ち込めたことは鶴田にとって大きな収穫だった。
馬場は全日本旗揚げ直後にミュンヘン五輪レスリング代表の鶴田を後継者として入団させたが、馬場は鶴田に次ぐ〝第三の男〟のスカウトにも動いていた。大相撲の元前頭筆頭・天龍源一郎である。
前年9月に二所ノ関部屋の分家独立騒動に巻き込まれて相撲界に嫌気がさしていた天龍にプロレス転向の話を持ちかけたのは、当時の馬場のブレーンだった筑波大学教授の森岡理右。
森岡は教授になる以前に相撲記者をやっていた時期があり、天龍とは顔見知り。この年の4月、土浦で行われた相撲の巡業に顔を出した森岡は、天龍と一緒に電車で帰京したが、その車中で天龍の悩みを聞いて全日本でプロレスラーになることを薦めたのだ。
馬場夫妻の招待で6月11日、蔵前国技館での王者テリーに鶴田が挑戦したNWA世界戦を2階席から観戦した天龍は、相撲にはない華やかなムードと解放感に魅了されてプロレス転向を決意。10月15日に全日本に入団した。
馬場はこうして全日本の地固めに力を入れる一方で、リングの上では猪木が成しえなかったことをやってのけて、プロレスラーとしての存在感をアピールした。前年12月に猪木が60分時間切れ引き分けの名勝負を演じたビル・ロビンソンに勝ったのである。
ロビンソンが全日本に転じたのは、新日本がギャラダウンを提示してきたからだと言われていて、馬場も「ロビンソンがウチの外国人招聘窓口のドリーに直接電話をかけてきて、新日本が最初に提示していたのと同じ条件で契約しただけのこと」と、引き抜きではないことを強調していた。
ロビンソンが馬場に挑戦したPWFヘビー級戦は7月24日、蔵前国技館において60分3本勝負で実現。積極的に攻めに出た馬場は16文キックから秘密兵器のバックドロップで1本目を先取。2本目は左膝にドロップキックを連発されて、逆エビ固めにギブアップしたが、決勝の3本目はジャック・ブリスコからNWA世界王座を奪った最終秘密兵器のランニング・ネックブリーカーを決めて2─1で快勝。馬場は国際、新日本で無敵を誇ったロビンソンから初めて2フォールを奪った日本人レスラーになったのである。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。