新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【28】引き抜き戦争の煽りを食った国際プロレス崩壊
新日本プロレスがアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜けば、全日本プロレスはタイガー・ジェット・シンを引き抜き、トップ外国人ヒールが入れ替わった1981年、両団体の戦争は激化の一途を辿った。 あくま...
新日本プロレスがアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜けば、全日本プロレスはタイガー・ジェット・シンを引き抜き、トップ外国人ヒールが入れ替わった1981年、両団体の戦争は激化の一途を辿った。 あくま...
「いろいろあっても、お互いの立場を尊重していた業界じゃないですか。それが相手のトップスターを取るという喧嘩の仕方をしてくるなら、こっちもやらなきゃいけないということで、その後にすぐに報復措置に入りまし...
1971年12月7日に札幌中島スポーツセンターでドリー&テリーのザ・ファンクスに敗れて以来、7年8カ月ぶりにジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲が復活した79年8月26日、日本武道館での「プロレ...
この試合の3カ月後の6月26日、猪木は大阪府立体育会館でタイガー・ジェット・シンの右腕を折るという凄まじい喧嘩ファイトをやってのける。 前年11月15日、当時の夫人・倍賞美津子との買い物帰りの猪...
1974年の日本プロレス界は、アントニオ猪木の実力日本一路線で独走態勢に入った新日本プロレスに対して、全日本プロレスは年末にジャイアント馬場が日本人初のNWA世界ヘビー級王座奪取の偉業を成し遂げて一...
アントニオ猪木と新日本プロレスは実力日本一路線で1974年に大躍進したが、前年73年4月からスタートしたNET(現・テレビ朝日)「ワールドプロレスリング」の視聴率を押し上げた功労者は〝インドの狂虎〟...