越後酒といえば「越乃寒梅」「八海山」「久保田」などが著名だが、私にも深いご縁の蔵がある。
本格的な日本酒取材の端緒となった蔵のひとつ、新潟県長岡市の河忠酒造だ。
当時33歳、若き河内忠之9代目蔵元が、名人といわれた73歳のベテラン、黄綬褒章を受けた郷良夫杜氏と二人三脚で新ブランド「想天坊」を醸していた。
淡麗辛口ブームは去ったが今も「想天坊」は健在だ。郷の愛弟子、野水万寿生杜氏が奮闘している。
52歳になった河内蔵元はしみじみと語った。
「全国に辛口ファンが健在なのは心強い限りです。酒づくりの試行錯誤はありましたが、令和のオーソドックスというべき味わい、雑味を排した辛口を本道と心得て邁進しています」
なるほど、「想天坊」の味わいは決してドライなだけでなく、確かなうま味、ほのかな甘さ、キレ味を演出する酸味が絶妙なバランスで共存している。令和の淡麗辛口を自負するこの酒は奥深き逸品というべきだ。
辛口のキーワード繫がりだと備後は広島県福山市の「天寳一」も忘れられない。地下200メートルもの深さから古代水を汲み、厳選した米をていねいに扱って渾身の酒を醸している。味わいの軸はタイトな辛口ながら酸味、うま味とも秀逸。イヤ味のない濃醇さが光る。
話を酒の近現代史に戻そう。平成6年、山形県村山市で醸された「十四代」が新たな一石を投じた。フルーティーで芳醇、うま口を謳った酒が話題騒然、プレミアがつく仕儀と相成る。「十四代」の衝撃はもうひとつあった。高木顕統蔵元が杜氏を兼務したことだ。蔵元が酒をつくるというのはコロンブスの卵、それまでの常識だった「蔵元は経営者、杜氏が醸造責任者」を覆してみせた。これ以降“蔵元杜氏”が一気に激増し、今日ではすっかり一般化している。
茨城県日立市で醸される「富士大観」と「森嶋」も6代目森嶋正一郎が杜氏を兼務している。彼は実直そうな口調で語ってくれた。
「ウチの蔵は『富士大観』が基幹銘柄。『森嶋』は僕が立ち上げたブランドです。僕が本当に呑みたいベストバランスの酒をイメージし、構想を練りました。『森嶋』は日本酒の伝統と新しい現代のテイストを兼ね備えた“モダンクラシック”の酒を目指しています」
彼は酒づくりを「険しく細い尾根道を歩くようなもの」と表現する。左に傾けば辛口へ転落、右によろけたら甘口の崖を真っ逆さま。行く手には酸味や苦渋味といった峡谷も待ち受けている。森嶋はその隘路を黙々と進む。これは経営面での取り組みも同じだろう。
「酒づくりは慎重に、じっくりていねいに状況をみて対応しています」
「森嶋」は薫り、味わいとも抑制が効き気品ある仕上がりながら、ひと口で「森嶋だ!」とわかる個性を持つ。静謐のなかの力強さ、出色の出来といえよう。
日本酒業界は蔵元杜氏制普及の後、生酒や原酒が人気を博す。平成19年には空前の焼酎ブーム到来、日本酒は思いっきり横面を張られてしまう。それでも、平成後期から令和にまたがる純米酒回帰、生酛・山廃づくりの復活があった。
この間に地酒のステイタスは格段に向上した。一方、灘や伏見の大手メーカーは、どうにも打つ手が功を奏さない。ただし、酒質の良し悪しは蔵の規模ではなく、思想と技術の問題だ。また蔵元と杜氏が別々であっても構わない。「想天坊」「天寳一」然り、蔵元と杜氏の意思疎通ができていれば、うまい酒は醸せる。
誌面が尽きかけてきたところで、私の贔屓にしているうまい地酒を紹介したい。ひとつは山形県の老舗銘柄「初孫」。生酛が得意の蔵で、甘辛酸味とまろやかさが絡み合う味わいのデザインが格別。思わず喉が鳴る。
そして香川県の「金陵」。ワイン酵母から、うどんに合う酒まで種々様々な試みをする蔵だが、呑み飽きしない純米酒がいい。今の季節、私は冷や(常温)か燗酒でグビッとやっている。
【今週の厳選5銘柄】
①「想天坊 外伝辛口純米酒」1199円 河忠酒造(新潟県)
スルリと呑めるスマートさが身上だが、決して淡泊、浅薄ではない。上品で軽やか、キメの細かな味わいは特筆もの。高品位の辛口なので和洋中どの料理にも合わせることができる。本品に加え「純米大吟醸」「じゃんげ」もお勧め。
②「天寳一 特別純米八反錦」1485円 天寳一(広島県)
吟醸香が鼻先をくすぐり、口に含めば「うまい」と声が漏れる。複雑な風味を酸味と辛口の味わいがスッキリまとめあげる。以前は濃厚が勝る呑み口だったが、近年はシャープさが際立ってきた。辛口を堪能するには冷酒か燗酒で。
③「森嶋 山田錦純米吟醸生酒」1815円 森島酒造(茨城県)
平成‐令和のトレンド「高酸甘薫」を踏まえながら類例の酒とは一線を画する逸品。品のいいフルーティーさ、甘辛のバランスとさわやかな酸味、生酒ならではの発泡感にニンマリ。苦み、渋みの配分の絶妙さが抜群のキレを生む。
④「初孫 いってつ(一徹)生酛」1320円 東北銘醸(山形県)
酸味と辛口の味わいに、まろやかな甘味が絡む。濃厚だがクドくないので盃が重なる。それが初孫の生酛ならではの妙味。冷や(常温)で純米酒のコク、燗酒なら辛口の醍醐味を堪能できる。これからの季節は鍋料理にぴったり。
⑤「金陵 濃醇純米」1155円 西野金陵(香川県)
金毘羅様の御前酒は淡い山吹色をしている。程よい酸味とコク、じんわり滲むうま味が調和。この酒のクラシカルな佇まいは、甘酸っぱくてフルーティーな酒が大手を振る今だからこそ再評価されるべき。冷や(常温)でもいける。
*価格は四合瓶、税込み。購買の際は蔵へ直接お問い合わせください。
作家・増田晶文(ますだ・まさふみ)作家。昭和35年生まれ。小説執筆の傍ら今も日本酒取材を続ける。関連書籍に「うまい日本酒はどこにある?」「うまい日本酒をつくる人たち」など。最新作は歴史小説「楠木正成 河内熱風録」(いずれも草思社)。