1975年5月22日、後楽園球場では日本ハム対南海8回戦が行われていた。観衆は7000人である。閑散としていた。
5回1死一、二塁。南海の野村克也が打席に入ると球場が少しざわついた。投手はレイだった。野村が振り抜いた打球は、カーンと快音を残して左翼席上段に突き刺さった。
逆転の9号3ランは大記録だった。プロ22年目で通算600号本塁打。選手兼任監督で40歳まであと1カ月だった。
パ・リーグ新記録であり両リーグを通じて王貞治に次ぐ史上2人目の快挙だ。
野村は数多くの名言・名文句・金言を残している。中でも最も有名なのが「王や長嶋がヒマワリなら、私は日本海の海辺に咲く月見草だ」である。野村の真情を凝縮したもので、この日の記者会見ではもっと長く真情を吐露している。
「ONは太陽の元で咲く大輪のヒマワリだ。それに比べ人気のない、少ないファンのスタンドでひっそりと寂しくきれいに咲くワシは月見草や。自己満足かもしれないが、そういう花もあっていいかなと思ってきた」
そして続けた。
「数は少なくても、観に来てくれるお客さんのために咲く花があってもいい。これが私を22年間支えてきたものです」
あの名言はONへの強烈なライバル心が言わせたものだった。今でこそパ・リーグはセ・リーグに負けないほどの人気を集めているが、当時の新聞・テレビなどのマスコミはセ・リーグ、いや、巨人一辺倒だった。
どんなに活躍しても、本塁打王を何度も獲得してもマスコミは「パ・リーグの野村」を大きく取り上げなかった。
特に王、長嶋はどんなことでも大きく報道された。羨望と強烈なライバル心が生まれ、これが自らを鼓舞するエネルギーとなった。
野村は600号を打った際の会見に備えて、1カ月前からコメントを考えていた。ふと頭に浮かんだ光景があった。故郷は京都府網野町である。少年時代、アルバイトの帰りに見たのが夕方に咲く月見草だった。開花が夜で、月に寄り添っている。可憐で白や黄色い花を咲かせる。朝には散る。
人知れずひっそりと咲く月見草に自身を重ね合わせた。太宰治の「富嶽百景」の一節「富士には月見草がよく似合う」も頭にあった。
後の妻、沙知代に「月見草が陰だとしたら、光り輝く花はなんだ」と聞くと「ヒマワリでしょ」と即答した。野村の代名詞が誕生した。
王の600号はこの前年、74年5月30日の阪神戦(甲子園)だった。3回に谷村智啓の内角カーブを右翼席に運んだ。1983試合目での大記録達成となった。
雨のため6回裏、阪神の攻撃中に30分間の中断をはさみコールドゲームとなったが、悪条件の中でも3万2000人のファンが観戦していた。
かつて本塁打と言えば野村の独壇場だった。61年から8年連続でパ・リーグの本塁打王に輝いた。通算400、500号と球界で一番乗りだった。
その野村の背中をすさまじい勢いで追って来たのが王である。野村より5年遅い入団だったが、62年から一本足打法に変えて本塁打を量産した。この年から13年連続でセ・リーグの本塁打王となる。以後2人の激しい争いとなったが、最後は王の一人旅となった。野村の600号は1年遅れとなる。
猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。