長嶋茂雄×野村克也「実録ライバル史」(10)「契約しないならば飛び込んで死にます

 野村克也にとっても、57年は大きな飛躍の年になった。プロ入り4年目、22歳にして30本塁打を放って、初のタイトルである本塁打王を獲得した。前年は7本塁打だった。

 野村は「ずっと試合に出してもらえましたからね。出ているうちにコツを覚えた。ツボにくればこう打つんだというスイングです。だいぶわかってきた」と話している。

 だが野村の野球人生は茨いばらの道だった。プロ1年目から解雇、つまりクビの危機に晒されている。

 54年、希望に胸を膨らませてテスト生として南海に入団した。だが給料は7000円で合宿費は4000円、1000円を実家に仕送りしていた。

 1軍に帯同しても、来る日も来る日もブルペンで投手の球を受けるだけだった。プロ初打席は6月17日の対西鉄戦(大阪球場)。5点をリードされた最終回に代打で起用された。結果はあえなく三振だった。

 この年9試合に出場して11打数無安打、打点0。秋に「素質がない。来年は契約しない」と通告されたが、必死に食い下がった。

「納得いきません。どうしてもというなら南海電車に飛び込んで死にます」と担当者に訴えた。これまた野村の有名なエピソードだ。球団は根負けして翌年の契約を決めた。

 翌55年は、2軍監督から一塁へのコンバートを命じられた。捕手でレギュラーを獲得できる近道が南海だと思っていただけにショックだった。「肩が弱い」が理由だった。

 だが、もともと打撃はいい。2軍でレギュラーとなり打率3割2分1厘をマークして関西ファームリーグ(現在のウエスタンリーグ)で打撃成績2位となる。

 この年、野村は肩の弱さやパワー不足を強化しようと、当時は珍しかった筋肉トレーニングを取り入れた。腹筋、背筋、そして腕立てだ。バットは毎日約500本振った。

 56年、南海は前年のリーグ制覇の褒美としてハワイキャンプを行った。野村はブルペン捕手として帯同してチャンスをつかむ。2番手捕手が初の海外キャンプに浮かれた。遊びすぎで鶴岡監督の逆鱗に触れた。結果、野村が現地チームとの試合に抜擢され活躍する。

 帰国後、鶴岡監督は「ハワイキャンプは失敗だったが1つだけ収穫があった。野村だ。2、3年後には必ず南海を背負う大打者になる」と話している。大きな自信となった。

 3月21日の阪急との開幕戦(大阪球場)で途中出場した。この年、85盗塁して当時の日本記録を樹立した河野旭輝を二塁で刺して、弱肩から強肩への変身をアピールした。

 初ヒットは4月9日、藤井寺球場での近鉄戦だった。開幕10戦目、8回に三遊間をしぶとく破った。通算2901安打の第一歩は泥臭かった。

 4月28日、後楽園球場での毎日(現ロッテ)戦で一時は逆転となる初本塁打を放った。3ラン。毎日の別当薫監督は驚いた。

 この年、野村は129試合に出場して打率2割5分2厘、7本塁打、54打点を挙げて初のベストナインにも選出された。

(敬称略)

猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。

*週刊アサヒ芸能12月1日号掲載

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