兵庫県明石駅ホームに夜行列車「急行さつま」が滑り込んだ。1958年2月16日午前9時45分だった。
三等車の指定席から1メートル79センチ、78キロの大柄な青年が降り立った。学生服姿だ。4日後の20日に22歳の誕生日を迎える巨人の「黄金ルーキー」長嶋茂雄だった。
大勢の報道陣が押し掛けた。取り囲んだカメラマンのフラッシュを浴びた。矢継ぎ早に質問が飛んだ。出口へと急いだ。ホームには約300人、明石駅頭には約2000人のファンが待っていた。駅前はバスもタクシーも通行止めになった。すごい人気である。
東京六大学野球のスーパースター・長嶋は前年の57年12月7日、東京丸の内の東京会館別館で巨人と正式契約を結んだ。当時の監督は水原茂(当時の登録名は円裕)である。
現在とは違って新人争奪は激しい自由競争時代だ。六大学野球で立教大学の春夏連覇の立役者で、首位打者を2度獲得、新記録となる8本塁打をマークした。
55年秋から4季連続でベストナインに選出されて、通算成績は96試合に出場して87安打、打点38、打率は2割8分6厘である。走攻守の三拍子に「超」が付く。新聞各社は戦後最高のプレーヤーとして称賛した。当然のことながら、激しいスカウト合戦が水面下で繰り広げられた。報道合戦も凄い。当時、立大の長嶋、杉浦忠、本屋敷錦吾は「立大三羽ガラス」と呼ばれていた。
秋のリーグ戦が始まる頃、新聞は「長嶋、南海が最有力」と書き立てた。南海は早くから長嶋、杉浦に勧誘の手を伸ばしていた。仲介していたのは南海の大沢啓二だった。立大の2年先輩である。鶴岡一人監督(当時は山本)の命を受けて2人の面倒を見ていた。こうした事情があって、多くのマスコミも「南海有力説」に傾いたのだ。
だが、長嶋は初めからプロに入るなら「巨人」という強い気持ちを持っていた。一時は鶴岡監督に会って、その人柄に触れて揺れ動いたこともあったという。
だが、巨人は少年時代から憧れの球団である。日本一の巨人でプレーしたい。純粋な気持ちである。南海との間に行き違いがあったのだろう。秋に入ってこの情報をつかんだ巨人が、猛烈に巻き返した。
長嶋は巨人入団を決断した。契約金は接触してきた数球団で最も低い1800万円だった。とはいえ、当時の最高額だ。大卒公務員の初任給が約1万円の時代である。
のちに長嶋はこの行き違いを鶴岡に詫びた。杉浦は南海に入団を決め、本屋敷は一早く阪急(現オリックス)入りを公表していた。
入団会見ではサプライズがあった。猛牛・千葉茂から背番号「3」を譲られたのだ。千葉の長嶋への門出のはなむけである。
長嶋は「今日正式に巨人軍に入団して、こんなうれしいことはありません。自分自身の意思を貫き通して巨人入りしただけに、感激もひとしおです」と話し、こう続けた。
「名誉ある3を付ける以上、絶対に頑張らなければなりません。単純な考えですが、前から内野だから若い番号が欲しかったんです」
猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。
*週刊アサヒ芸能12月8日号掲載