長嶋茂雄×野村克也「実録ライバル史」(14)野村を正捕手にした「400フィート打線」

 野村が正捕手への足場を築いたのは56年だ。マスクを被る機会には恵まれたものの、打撃がなかなか向上しない。先輩の松井淳にリードでは勝てない。経験、実績が違う。勝つにはバットしかなかった。野村は「打てる捕手」を目指す。

 5月終わり頃に2軍落ちする。ガッカリしたが幸運が訪れる。この年、パ・リーグの覇者となったのは西鉄だった。中西太、豊田泰光、大下弘ら強力な「流線型打線」を擁していた。屈指の好投手・稲尾和久もいた。前年優勝した南海は2位だった。

 南海は50年代初め、飯田徳治、木塚忠助、蔭山和夫、岡本伊三美ら華麗な守備の「100万ドルの内野陣」を看板にしていた。

 しかし鶴岡(当時は山本)一人監督は西鉄の躍進を見習い方針転換し、強力打線作りに着手していく。小説「あなた買います」のモデル・穴吹義雄、大沢啓二ら大学の即戦力を集めた。そして杉山光平、長谷川繁雄、寺田陽介ら打撃の評価が高い選手を起用していく。

 それは「400フィート打線」と呼ばれた。メートルに換算すると約122メートルで、この飛距離なら本塁打になることから名付けられた。チームの大型化でもある。野村は175㌢で、当時としては大柄なほうだった。夏場過ぎに野村に1軍への声がかかった。

 前半戦はなかなか安打が出なかったが、気持ちを楽にして打席に入ったことも奏功したのだろう。後半だけで本塁打を6本打った。129試合に出場した。「打てる捕手」を目指した。

 この年、鶴岡監督から「お前、ようなったな」と声を掛けられた。大きな励みになった。チームの大型化の方針に乗って正捕手への道が開き、57年は完全に正捕手の座に着いた。30本塁打で初の本塁打王を獲得する。しかし、長嶋がデビューした58年から試練に見舞われる。

(敬称略)

猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。

*週刊アサヒ芸能12月15日号掲載

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