長嶋茂雄×野村克也「実録ライバル史」(16)砂を詰めた一升瓶で筋トレの日々

 一方で、野村克也である。58年のシーズンに入ると悩むようになった。突然、思うように打てなくなったのである。

 54年にテスト生として入団した時は、契約金ゼロで年俸は8万4000円、月給で7000円だ。寮費で3000円を天引きされて残るのは4000円。そのうち1000円を実家に仕送りしていた。

 だが2軍で一塁のレギュラーを取った55年の月給は1万5000円。正捕手への道を歩み始めた56年は7万円と、急カーブを描いて上がっていった。57年は30本で、初のタイトルである本塁打王を獲得して一流選手の仲間入りを果たした。打率も3割を超えた。

 鶴岡一人監督にこんな名言がある。

「グラウンドには銭が落ちている。人が2倍練習をしてたら3倍やれ。3倍してたら4倍やれ。銭が欲しけりゃ練習しろ」

 野村は稼いだ金は稼いだ分だけ使ったという。後輩を引き連れて遊びに行くこともたびたびあった。1銭も残らず使い切って、自分をハングリー状態に置く。それが次へのモチベーションとなった。

「これでプロとして生きていける」と思った矢先だった。もちろんテスト生で入団してからはとにかくバットを振り続けた。砂を詰めた醤油の一升瓶をダンベル代わりにして筋肉を鍛えた。血の滲むような努力を重ねた。それだけに突然の打棒不振はショックだった。58年は120試合に出場し打率2割5分3厘、21本塁打、打点79、59年は132試合出場で打率2割6分3厘、21本塁打、打点78だった。

 それほどひどい成績ではないが、野村はさらなる飛躍を誓い、また周囲からも期待されていた。なによりも三振数が58年に94個、59年には98個と100個近かった。

 原因は明らかだった。カーブを打てなかった。この球が来るとバットが空を切った。ある先輩が言った。

「殴ったほうは忘れていても、殴られたほうは決して忘れていない」

 本塁打を打った打者は忘れていても、打たれたほうにしてみれば次は打たれまいと工夫してくる。対戦投手が野村を研究し、攻め方を変えてきたのだ。

 58、59年と殻を破ることができなかった。当時の指導者たちは具体的なアドバイスをくれなかった。3割を打てば一流打者である。あと4分か5分上積みしたい。打開策を模索した。そして出た突破口は─。

(敬称略)

猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。

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