長嶋茂雄は多くの「伝説」を残しているが、1953年8月1日、埼玉・県営大宮球場で放ったバックスクリーン弾を抜きにしては語れない。生涯を決めた一発だった。
36年2月20日、日本にプロ野球が誕生したその年、長嶋は千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市)で生まれた。
幼い頃から三角ベースの野球に親しみ、佐倉中学時代は主将として活躍する。51年には佐倉一高(現・佐倉高)に進学。甲子園出場を目指して本格的に野球に取り組んだ。
2年生夏は3回戦まで進んだが、敗退した。3年になると主将に選ばれる。この頃、小柄な体格は177cmまで伸びていた。
翌53年夏は甲子園へのラストチャンスである。この年、大きな転機があった。「サード長嶋」の誕生だ。中学時代から守備位置はショートだったが、エラーが多かった。
6月、市川高と練習試合を行った。第1試合ではトンネルのおまけ付きで4失策、第2試合でも大型遊撃手は5回にトンネルをしでかした。当時の監督はたまらず、審判に遊撃と三塁の入れ替えをコールした。
この瞬間、日本最高の三塁手が生まれた。
ピンチがチャンスに変わる。代わった途端、打者の打球は凄まじい勢いで長嶋の右を襲った。佐倉一高のだれもが目をつぶった。
だが、長嶋は体当たりして横っ飛びで球をつかんだ。身体を一転させる。鉄砲肩で一塁に矢のような送球をした。素晴らしいファインプレーだった。
以後「サード長嶋」は代名詞となった。
夏の県大会予選、遊撃から三塁にコンバートされた長嶋を中心に、佐倉一高は順調に勝ち上がった。千葉・埼玉勢が1枚の代表校切符をかけて戦う、南関東大会への出場権を得た。
初戦の相手は強豪・熊谷高だ。佐倉一高は1回にいきなり3点を奪われて、苦しい展開となった。熊谷高の投手は福島郁夫、のちにプロ入り(東映、現日本ハム)を果たした好投手だ。佐倉一高打線は5回まで0を重ねていた。
そして迎えた6回一死。長嶋が打席に立った。カウント1-0(現在の0-1)から伸びのある真っすぐが真ん中高めに来た。振り抜いた。打球は空高く舞い上がった。ぐんぐん飛んだ。緑色のバックスクリーンを直撃する超特大の本塁打となった。
福島はこう語っている。
「(OBに)このチームには長嶋という大柄ないい選手がいる。気を付けろと言われた。最初は凡打、次はレフト前‥‥言うほどではないという気持ちがなきにしもあらずだった。勝負を挑んだが、ものの見事に打たれた」
南関東大会には多くの報道陣、社会人、プロ野球の関係者が詰めかけていた。翌日の朝日新聞千葉版は〈長島(佐倉一)大本塁打を放つ〉と大見出しで報道した。「長島」の見出しが躍った初めての記事となった。本人も「記事を読んでうれしかった」と話している。
高校3年間で打った本塁打はこの1本だけだが、最高の舞台で飛び出した。試合には敗れた。しかし、無名だった長嶋はこの1打で球界関係者の間で一躍注目を浴びる。
プロのスカウトが来た。大映(現ロッテ)、阪急(現オリックス)、3番目に憧れの巨人の順番だった。
猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。
*週刊アサヒ芸能11月24日号掲載