長嶋茂雄×野村克也「実録ライバル史」(9)「プロに入る前に人間を作ってもらう方が先だ」

 1957年11月3日、文化の日だった。午後1時35分、明治神宮野球場で東京六大学野球・立教大学対慶応大学2回戦のプレーボールがかかった。

 0対0で迎えた5回裏、立大4年・長嶋茂雄が先頭打者として2度目の打席に入った。マウンド上はエース林薫だ。長嶋は3─1からの5球目、内角から真ん中に入ってくるカーブを叩いた。打球は左翼ライン沿いのライナーとなって左翼席に飛び込んだ。

 その瞬間、5万人の観衆から地を揺るがすような大歓声が起こった。宮武三郎(慶大)、呉明捷(早大)の7本を破り、東京六大学新記録となる通算8本目の本塁打だった。

 長嶋は全力で一塁から二塁、そして三塁を回る。両手をグルグルと回して体全体で喜びを表した。踊るように本塁を踏むとナインから手荒い祝福を受けた。実に88打席ぶりの一発だった。「どんな球だったかわからない。夢中でした」と振り返った。

 現在の神宮球場は両翼97.5メートル、中堅120メートルである。26年に完成した昔は広かった。両翼100メートル、中堅118メートルで左中間と右中間には深い膨らみがあり、そうそう本塁打を打てなかった。

 長嶋は2度目の首位打者を獲得。試合も4対0で勝ち、立大初の春秋連覇に花を添えた。

 高3時、大映、阪急、憧れの巨人から勧誘された。本人はプロ入りを志したが、父親は「大学を出ておいたほうがいい。人間を作ってもらうほうが先だ」と強く進学を勧めた。

 53年11月、長嶋は立大野球部のセレクションを受ける。静岡県・伊東スタジアムに全国から高校球児約80人が参加した。

 当時の監督は50年に就任した31歳の砂押邦信だ。鬼のスパルタ教育で有名だった。長嶋を一目見て「素晴らしい大型内野手になる」と素質を見抜いた。今も語られるエピソードであり、2人の運命的な出会いだった。

 弾力を生かした走り方と手首の柔らかい打撃に驚く。粗削りではあったものの、選考ではたった1人、長嶋をトップに推薦する。

 長嶋が翌54年4月に入学すると、砂押監督は上級生2人を専用コーチにつけて徹底した英才教育に乗り出す。砂押もまた、連日激しいノックを浴びせた。

 伝説の「月夜のノック」。夜間練習でボールが見えなくなる。石灰を塗る。これを長嶋は素手で捕る。一歩間違えば骨折だ。極限状況下で師弟の真剣勝負である。この猛練習で長嶋の技術は飛躍的に伸びていった。

 砂押は周囲の反対を押し切り、1年時から公式戦で起用した。翌55年、砂押監督は秋のシーズン直前に辞任した。「練習が厳し過ぎる」が理由の排斥運動によるものだった。

 砂押は約1年半、長嶋に基礎を叩き込んだ。2年秋の開幕戦で初めて「4番・サード」で出場し第1号本塁打を放った。3年時には六大学を代表するスター選手になった。

猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。

*週刊アサヒ芸能12月1日号掲載

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