初代鎌倉殿の源頼朝は何故、源平合戦のヒーロー・源義経よりも、義弟の義時を選んだのか。
頼朝のイメージについて松村氏は、
「大泉洋さんの頼朝はすでにシルエットが、僕らのイメージする頼朝になっていましたね。『草燃える』で頼朝を演じたのは石坂浩二さんでしたが、男前の頼朝のイメージでした。女たらしの頼朝は何人もの女性と浮気をしていますが、義時はそばで見ていても、姉の政子にはそのことを伝えていません。頼朝にとって、義時はいちばん信頼できる義弟だったんです。だから、義経が腹違いの弟ですって途中から入ってきて、平家との戦いで手柄を立てても、自分を差し置いて勝手に朝廷から官位をもらって肩を並べるような振る舞いをするのは弟じゃないと思っていたんでしょう」
松村氏はさらに、義経を次のように評価した。
「義経がよくないのは、鎌倉幕府という置屋を通して働かなくてはいけないのに、朝廷から直でお仕事をいただいたり、朝廷から位をもらったりしたこと。それは幕府の権威衰退につながります。僕が義経だったら『すみませんが後白河法皇、私は頼朝の弟で鎌倉幕府の所属ですので、勝手なことをやると、あとで兄に怒られます。なので、鎌倉のほうに一言言っていただいて、それからのお仕事になると思います』と言うべきなんです。僕らが所属事務所の太田プロを通さずに仕事を受けたりすると闇営業になってしまうのと同じことで、義経も闇営業で評判が落ちたんですね」
頼朝の父は、平治の乱で平清盛に負けて東国に逃げる途中に部下に殺された源義朝で、母親は熱田神宮の宮司の娘である。河合氏の解説はこうだ。
「一応、下級ながら貴族には属しています。義朝の何番目かの子供だったのに源氏嫡流と称して、島流しになった関東の荒くれ武士たちを束ね、平家に反旗を翻して挙兵。そのことで、自ら伝説を作ったようなところがあります」
頼朝は結局、義経を切ることになるが、その理由を次のように続ける。
「義経を切った動機については、義経への嫉妬だとか、いろいろな説がありますが、屋島の戦いや壇ノ浦の合戦では、義経は西国、近畿地方の武士をまとめて平氏を滅亡に追い込んだんです。東国の武士を率いていたのは頼朝のもう一人の弟の範頼でしたが、東国の武士たちは船をろくに持っていなくて、結局、岸から弓を射るぐらいしかできない。関東からわざわざやってきてもほとんど手柄を挙げられず、報償も多く与えられなかったのです。それが関東武士たちの義経への不満となり、関東武士によって担がれていた頼朝としても、義経を切らざるを得なくなったのでしょうね」
河合敦(かわい・あつし):65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「関所で読みとく日本史」(KAWADE夢新書)。
山本みなみ(やまもと・みなみ)89年、岡山県生まれ。京都大学大学院にて博士(人間・環境学)の学位取得。現在は鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大学非常勤講師。中世の政治史・女性史、特に鎌倉幕府や北条氏を専門としている。
松村邦洋(まつむら・くにひろ):67年、山口県生まれ。太田プロダクション所属。大河ドラマの役者のものまねを織り込んだ歴史知識を披露するなどバラエティー、ドラマ、ラジオで活躍中。YouTube「松村邦洋のタメにならないチャンネル」配信中。
*「鎌倉殿の13人」暗黒プロフィール(3)につづく