新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【11】「新日の狂虎」と「全日の呪術師」
アントニオ猪木と新日本プロレスは実力日本一路線で1974年に大躍進したが、前年73年4月からスタートしたNET(現・テレビ朝日)「ワールドプロレスリング」の視聴率を押し上げた功労者は〝インドの狂虎〟...
アントニオ猪木と新日本プロレスは実力日本一路線で1974年に大躍進したが、前年73年4月からスタートしたNET(現・テレビ朝日)「ワールドプロレスリング」の視聴率を押し上げた功労者は〝インドの狂虎〟...
ストロング小林、坂口征二、大木金太郎との超大物日本人対決を次々と実現させ、実力日本一に邁進することで、1974年に大躍進したアントニオ猪木と新日本プロレス。 猪木は「日本選手権開催には馬場さんの...
1974年は新日本プロレスとアントニオ猪木が、実力日本一路線を打ち出して大躍進した1年だ。 そのきっかけとなったのは国際プロレスのエース、ストロング小林のフリー宣言。同年2月13日にフリー宣言し...
1973年2月8日、アントニオ猪木と坂口征二による新日本プロレスと日本プロレスの合併が報じられた時、全日本プロレスのジャイアント馬場は「正直言って、驚かなかったね。かなり前から動きには気付いていたか...
1972年3月に新日本プロレスを旗揚げしたアントニオ猪木、同年10月に全日本プロレスを旗揚げしたジャイアント馬場。ともにプロレスラーとして、プロモーターとして、日本マット界の頂点に立つという野望を抱...
1972年10月22日、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスが日本テレビと力道山家を後ろ盾に豪華外国人を揃えて東京・日大講堂で本旗揚げ。この年の3月6日にテレビも付かず、豪華外国人も呼べずに意地だけ...
1972年7月29日、ジャイアント馬場は「第1次ビッグ・サマー・シリーズ」開催中に日本プロレスからの独立を発表したが、8月18日の石巻市中央広場での最終戦まで出場した。ポスターに写真と名前が載ってい...
1971年暮れに会社乗っ取りを策したとして日本プロレスを追放されたアントニオ猪木は、翌72年3月6日に新日本プロレスを旗揚げ。しかしテレビ中継もなく、大物外国人も呼べずに苦戦した。3月25日の秩父宮...
1971年12月13日、会社乗っ取りのクーデターを画策したとして日本プロレスを追放されたアントニオ猪木は、翌日に記者会見を開いて「会社をよくするために私と馬場さんが中心になって全選手が手を握った。そ...
1966年3月、2年間の米国武者修行を終えたアントニオ猪木は、4月開幕の「第8回ワールド・リーグ戦」に参加するべく、帰国前にハワイでジャイアント馬場と合流して特訓を行ったが、一緒に帰国することはなか...