新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【9】「猪木VSストロング小林」の名勝負

 1974年は新日本プロレスとアントニオ猪木が、実力日本一路線を打ち出して大躍進した1年だ。

 そのきっかけとなったのは国際プロレスのエース、ストロング小林のフリー宣言。同年2月13日にフリー宣言した小林は「ジャイアント馬場選手、アントニオ猪木選手と戦って、自分の力を試してみたい」と、馬場と猪木に内容証明付の挑戦状を送付。猪木はすぐさま挑戦に応じ、馬場は「小林が全日本プロレスのメンバーになるか、NWA系グループの中に入らなければ戦えない」と拒否。「受けて立った猪木、逃げた馬場」という空気が生まれた。

 しかし、ここに至るまでには水面下で、新日本と全日本が小林争奪戦を繰り広げていた。小林が自身の扱いに不満を持って、国際退団を考えているという情報が両団体に入ったのは74年に入ってすぐのこと。新日本は猪木の腹心の新間寿営業本部長が、全日本は馬場シンパのベースボール・マガジン社「月刊プロレス」の藤沢久隆編集長、さらには小林が国際に入門した当時のコーチのマティ鈴木という2つのルートで東京・青梅の小林家を通じて獲得に動き、最終的には2カ月間、青梅市の小林の自宅に日参した新日本の新間が口説くことに成功した。つまりフリー宣言、馬場と猪木への挑戦というのは新日本が描いたシナリオだったのだ。

 猪木vs小林の実現は、54年12月22日に日本ヘビー級王座決定戦として蔵前国技館で行われた力道山と木村政彦の〝昭和巌流島の決闘〟以来20年ぶりの超大物日本人対決として大きな話題となり、3月19日の蔵前国技館は超満員札止め1万6500人を動員。チケットを買えなかったファンが鉄門に殺到して一時はパニックになるほどだった。

 試合は日本人同士ならではの緊迫感に溢れ、猪木のナックルで喧嘩マッチの様相を呈したが、最後は猪木が、プロレスの芸術品と呼ばれるジャーマン・スープレックス・ホールド! 小林を叩きつけた瞬間、その衝撃でブリッジする猪木の両足が宙に浮いたシーンは、昭和プロレスの名場面として今も語り継がれている。

 この猪木vs小林の名勝負によって日本選手権開催の機運が高まる中、猪木はすぐに次の行動に出た。4月に新日本版の春の本場所として「第1回ワールド・リーグ戦」を開催したが、かつての日本プロレスの「ワールド・リーグ戦」が日本人vs外国人だったのに対し、新日本版は、予選リーグこそ日本人vs外国人だが、それぞれ上位4選手による決勝リーグは総当たりにしたのである。結果、4月26日の広島県立体育館における決勝リーグ戦では猪木vs坂口が実現、30分時間切れ引き分けの熱闘になった。

 さらに、10月には大木金太郎戦も実現させた。大木は日本プロレス崩壊後の73年夏に全日本に合流したが、扱いに不満を持って年末に母国・韓国に帰国。しかし猪木vs小林実現を知るや、日本に舞い戻って「私もインター王者。猪木vs小林の勝者、あるいはPWF王者の馬場選手に挑戦したい」とブチ上げたのである。

 直後に日本テレビへの配慮からか、大木が馬場への挑戦は撤回して「猪木vs小林の勝者に勝ったら、馬場選手に挑戦する」とニュアンスを変えたため「馬場と大木が挑戦者決定戦をやって、俺に挑戦してこい」と猪木が態度を硬化。一度は対戦が宙に浮いてしまったが、その裏で、またまた新間が動いた。韓国に戻らずに渋谷に住んでいた大木を密かに訪ねて挑戦の真意を確かめ、試合会場で直接、猪木に対戦アピールすることを薦めたのだ。

 その後の展開は猪木の感性に委ねるというのが〝過激な仕掛け人〟と呼ばれる新間の作戦だった。

 大木は8月30日の後楽園ホールの花道で猪木に「なぜ挑戦を受けてくれないんですか?」と詰め寄り、9月10日の愛知県体育館では血判を押した毛筆の挑戦状を手にリングに駆け上がって挑戦をアピールして、遂に猪木の口から「喧嘩として受けて立つ。こういうムードにしてしまったのは、あの人の責任だ。腕を折られるか、足を折られるか‥‥すべてあの人の責任だ」という言葉を引き出した。

 10月10日、蔵前国技館で実現した猪木vs大木の力道山門下対決も超満員札止め1万6500人を動員。そして、額から血を流しながら大木の頭突きを真っ向から受け止めた猪木がバックドロップで勝利。試合後、両雄は因縁を水に流すように男泣き。壮絶な喧嘩マッチは爽快な幕切れになった。

 この猪木vs大木の直前には元日プロ社長の芳の里淳三、九州山義雄、大坪清隆、豊登道春4人がプロレスリングOB有志として馬場に「貴殿が猪木vs大木の勝者と堂々と戦うことを要望するとともに、それがプロレスリング界の発展につながるものと確信する次第であります」という内容の勧告書を送付した。

 これも「日本選手権に邁進する猪木と、猪木から逃げる馬場」というイメージをファンに植えつける新日本の戦略。追い詰められた馬場の逆転の一手は─。

小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。

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