1972年10月22日、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスが日本テレビと力道山家を後ろ盾に豪華外国人を揃えて東京・日大講堂で本旗揚げ。この年の3月6日にテレビも付かず、豪華外国人も呼べずに意地だけで新日本プロレスを旗揚げしたアントニオ猪木は反骨心を燃え上がらせた。
馬場が日本テレビをバックに新団体旗揚げの報を聞いた時、猪木は「ウチは基本的にテレビなしでやっていく方針だから」と語ったが、日本テレビが72年5月に日プロの中継を打ち切った段階で同局の松根光雄運動部長(のちの全日本プロレス社長)に接近した。しかし小林與三次社長の「力道山から続く本流後継者の馬場でなければならない」の一声で、新日本の放映はなくなったのだ。
日本テレビは10月21日の全日本・旗揚げ前夜祭の生中継の前振りとして2週間前の10月7日から馬場のアメリカ遠征の模様を放映したが、猪木は東京12チャンネル(現・テレビ東京)の電波に乗って対抗した。
10月4日の蔵前国技館でカール・ゴッチから世界ヘビー級王座を奪取した試合が同月10日夜10時30分から1時間枠、10月10日の大阪府立体育会館における王座を奪回された試合が11月10日の夜8時から1時間枠として東京12チャンネルで放映されたのである。ただ、これは単発放送で、東京12チャンネルはレギュラー化する意図はなかったという。
当時のプロレス団体は、テレビ局の放映権料がなければ成り立たないと言われていた。実際、新日本の累積赤字は1億円に迫り、存亡の危機に瀕していた。
またNETテレビ(現・テレビ朝日)が付いている日プロも猪木、馬場という二枚看板が相次いで去ったことにより興行による収益はほとんど期待できない状況に陥っていた。
日プロとNETの契約は73年3月末日までとなっていたが「馬場が出場しないとなれば契約違反。日プロを法的に訴えることもあり得る」と厳しい姿勢を見せたNETは、日プロ中継の視聴率が低迷を続ける中で「馬場と日本テレビ連合軍に対抗するには猪木を日プロに戻すしかない」と判断。9月に猪木と日プロの新エース坂口征二の会談をセッティングし、新日本と日プロの対等合併による新団体設立構想が浮上した。
当時の経緯を坂口は「当時のNETの三浦(甲子二)専務、辻井(博=のちに新日本プロレス会長に就任)編成局長に〝猪木と一緒になれ。NETで一生面倒見るぞ!〟って言われた。それで〝日プロも新日本も解体して新会社を創って、芳の里さん(日プロ社長)を会長に迎えて…〟っていうところまで話が進んだんだよ」と語る。
年明け73年元日の正月番組「うし年だよ!スターもうれつ大会」に出演した猪木と坂口が乱闘を起こしそうな場面があったが、それは2人の合体に向けてのNETの演出だった。
合併案の内容は、【1】猪木が新日本を発展的解消、坂口以下の日プロ13選手が独立し、対等な形で新団体「新・日本プロレス」(仮称)を設立【2】社長には株の60%を所有する形で猪木が就任、坂口は持ち株40%で副社長に就任するというもので、2月1日に行われた選手会で日プロの全選手がこの案に賛成。同月8日、京王プラザホテルで猪木と坂口が記者会見で発表した。
猪木と坂口の電撃合体に馬場は「騒ぐことはない。俺はマイペース」と語ったが、坂口を猪木に取られたのはショックだった。馬場は日プロ独立を発表する以前に坂口には打ち明けていたし、選手会に「日プロが潰れたら、受け皿になるから」と置いてきた2000万円も坂口を想定してのものだったからだ。
坂口は72年11月13日に結婚したが、ギャラをもらっていなかったために資金が足りず、馬場が置いていった金から300万円を借り、猪木との合体が決まった時点で返金している。
だが、猪木と坂口の新団体構想は頓挫した。韓国に帰国していたために選手会を欠席した大木金太郎が日本に戻ってくるや「自分は何も聞いていない。これは形を変えた猪木の乗っ取りだ。自分は日本プロレスを守る」と宣言したために状況は一変。グレート小鹿、上田馬之助、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)、ミツ・ヒライ、松岡巌鉄、桜田一男(ケンドー・ナガサキ)、伊藤正男、羽田光男(ロッキー羽田)が大木に付き、坂口は小沢正志(キラー・カーン)、木村聖裔(健悟)、大城勤(大五郎)と田中米太郎レフェリーを連れて4月から新日本に合流することになった。
そしてNETは3月30日で日プロ中継を打ち切り、4月6日から猪木と坂口が合体した新日本プロレスの放映を開始。4月20日の蔵前国技館からの生中継では猪木&坂口の黄金コンビが1年半ぶりに復活した。
坂口に去られた日プロはわずか1シリーズで崩壊。日プロ選手会は身柄を力道山家に預け、大木以下の日プロ残党は4月27日、力道山家と日本テレビの仲介で全日本に吸収合併された。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。