1971年暮れに会社乗っ取りを策したとして日本プロレスを追放されたアントニオ猪木は、翌72年3月6日に新日本プロレスを旗揚げ。しかしテレビ中継もなく、大物外国人も呼べずに苦戦した。3月25日の秩父宮記念市民体育館大会の観客動員数1500人と発表されたが、実数50人だったというのは有名な話だ。
一方、日プロ改革を巡って猪木と袂を分かったジャイアント馬場はインターナショナル・ヘビー級王座を堅持し、新たに坂口征二をパートナーに東京タワーズを結成して、猪木とのBIコンビでファンクスに奪われたインターナショナル・タッグ王座を奪回。不動のエースに君臨していた。
だが、馬場の日プロ幹部に対する疑念と不満が消えたわけではなかった。猪木サイドは追放された際に「馬場さんに7000万円の借金があり、近々に必要な1500万円を調達したが、なぜか〝いらない〟と断られ、そこから馬場さんの態度が変わった」と暴露したが、それは力道山夫人の百田敬子が経営するリキ・エンタープライズの手形の裏書をして、それが回ってきたもの。馬場は幹部たちの放漫経営だけでなく、力道山家に対する対応にも不満を持っていたのだ。
そして決定的な事件が起こる。日本テレビに無断で馬場をNETテレビ(現・テレビ朝日)の中継に登場させたことだ。
日プロは69年7月から日本テレビとNETテレビ(現・テレビ朝日)2局中継となったが、その際に力道山時代から世話になっている日本テレビに配慮する形で様々な条件が付いた。一番大きかったのは「NETでは馬場の試合を中継しない」という約束である。
必然的にNETの看板は猪木になったが、その猪木がいなくなったため、NETは日プロに馬場の出場を要請。日プロは4月3日の「第14回ワールド・リーグ戦」第4戦の新潟大会から馬場をNETの中継に登場させてしまったのだ。
「長い付き合いの日本テレビならわかってくれるだろう」という日プロ幹部の読みは甘かった。激怒した日本テレビは、5月12日に東京体育館における馬場vsゴリラ・モンスーンの「第14回ワールド・リーグ戦」決勝戦を放映したのを最後に18年間にわたる日プロの中継を打ち切ったのである。
しかし日本テレビはプロレス中継から手を引く気はなかった。日プロ中継のプロデューサーだった原章は「初代社長の正力松太郎さんが始めた街頭テレビ‥‥プロレスをやることでテレビが普及し、それによってプロレスも普及した。その番組を提供した三菱電機も製品が売れるようになった。そして日本テレビには〝プロレスは財産であり正力さんの遺産だ〟という考えがずっとあったんですよ。プロレスは正力さんの遺産だから〝日本テレビはプロレスを続けなきゃいけない。そのためにはやっぱり大スターの馬場でなくてはいけない〟という指令が小林(與三次)社長から下りてきたんです。その時点から馬場さんを独立させようという内々の計画が進行し始めたわけです」と証言する。
5月下旬に日本テレビで馬場─小林社長の極秘会談が実現。小林社長は「正力さんの遺産だから、何としても馬場を独立させてプロレス団体を創りたい」と、自ら交渉に臨んだのだ。3時に始まった会談は夜8時過ぎまで続き、小林社長は予定していた政財界との会合をキャンセルしてまで熱心に馬場を口説いた。
当時34歳の馬場は「38歳までに日本のプロレスからは引退して、ハワイを本拠に漫遊がてらに米マットを1〜2年サーキットしてみたい」という人生設計を立てていたが、小林社長の熱意、そして日プロ幹部への不満から、日本テレビのバックアップを得て新団体を設立することを決意。馬場と原は「ゴールデン・ファイト・シリーズ」終了後の7月14日、密かに新団体旗揚げの根回しのためにハワイ経由でアメリカに飛んだ。
一方、日本テレビと馬場の計画を知らない猪木は、力道山時代の日プロで営業部長を務め、新日本の専務になった岩田弘を通じて日本テレビの松根光雄運動部長(のちの全日本プロレス社長)に接近していた。
日本テレビ内では「日プロとNETへの報復として馬場と猪木のBI砲を復活させよう」というプランもあったようだ。
しかし、小林社長は「力道山の正統後継者である馬場」にこだわり、猪木の日本テレビ登場は消えた。
そしてハワイに飛んだ馬場と原はアラモアナ・ショッピングセンターで猪木&倍賞美津子夫妻と遭遇している。それは偶然だった。
「私と馬場ちゃんの姿を見た時に寛ちゃん(本名・寛至の愛称)が嫌な顔をしたんです。私は寛ちゃんと個人的に親しかったから、何だか申し訳ない気持ちになっちゃいましたね」(原)
帰国後の7月29日、東京プリンスホテルで記者会見を開いた馬場は「お世話になった日本テレビとの絆を断ちがたく、日本プロレスから独立することにしました」と発表した。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。