新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【7】“ダイヤの原石”鶴田を巡る争奪戦!

 1972年3月に新日本プロレスを旗揚げしたアントニオ猪木、同年10月に全日本プロレスを旗揚げしたジャイアント馬場。ともにプロレスラーとして、プロモーターとして、日本マット界の頂点に立つという野望を抱いていた。

 しかし団体の未来を考えると、自分がトップに立つだけでなく、後継者作りも大きな課題だった。旗揚げした時、猪木は29歳で馬場は34歳。今のレスラーの年齢を考えれば2人とも若いが、当時のレスラーの引退は40歳前後と考えられており、猪木はまだしも馬場には数年しか残されていない状況だったのだ。

 当時、老舗の日本プロレス、国際プロレス、新日本、全日本の4団体が目を付けていたのが、同年夏のミュンヘン五輪にレスリング・グレコローマン100キロ以上級代表として出場した鶴田友美‥‥のちのジャンボ鶴田である。レスリングの前はバスケットボールの選手で、あんこ型揃いだったレスリング重量級の中で195センチ、115キロの鶴田はプロレス向き。争奪戦になって当然だ。

 高砂部屋、時津風部屋、二子山部屋などの相撲界も加わっての争奪戦に勝ったのは全日本。日プロは馬場に去られて興行不振に陥って経営難だったし、新日本はまだ坂口征二が合流する前でテレビ局が付いていなかったため、鶴田を獲得するどころか、団体を存続させるのが精一杯。国際はTBSテレビが付いて堅実な経営をしていたものの、「プロレスラーになるための箔をつける」という目的でレスリングを始めて五輪出場の実績を作った鶴田は、旗揚げしたばかりとはいえ日本テレビがバックに控え、日本マット界の第一人者の馬場が社長兼エースを務める全日本を選んだ。

 72年10月31日、旗揚げ9日目の全日本に入団した鶴田の「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談の上、尊敬する馬場さんの会社を選びました」という挨拶は、実に正直な言葉である。

 翌73年3月、中央大学を卒業した鶴田は日本で下積みすることなく、テキサス州アマリロのプロモーター、ドリー・ファンク・シニアに預けられ、その息子である当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクから英才教育を受けた。

 3月24日、アマリロのTVスタジオでエル・タピア相手に白星デビューを飾ると、2カ月後の5月30日には、ニューメキシコ州アルバカーキでドリーのNWA世界王者に挑戦。10月にダブルアーム、ジャーマン、フロント、サイドの4種類のスープレックスを引っ提げて凱旋帰国すると、10月9日の蔵前国技館で師匠・馬場のパートナーに抜擢されて、メインイベントでザ・ファンクスのインターナショナル・タッグ王座に挑戦して60分時間切れの熱闘を演じた。アマリロでデビューしてわずか7カ月で馬場に次ぐ日本人準エースに躍り出たのだから、やはり鶴田は天才だった。

 全日本は鶴田だけでなく、専修大学レスリング部の主将を務め、ミュンヘン五輪にレスリング・フリースタイル90キロ級韓国代表として出場した吉田光雄‥‥のちの長州力の獲得にも動いていた。

 鶴田と長州は、鶴田が1学年上で階級も違ったが、強化合宿で一緒に練習した仲。鶴田がアマリロから凱旋した時には各大学のレスリング部にチケットが回り、2階席から全日本の試合を観戦している。さらに、専修大学レスリング部の鈴木啓三監督と全日本のパーティーにも呼ばれた。鶴田の全日本入りに関与した、日本アマレス協会八田一朗会長の秘書的存在の野島明生(元早稲田大学レスリング部)は、長州も全日本に入れたいと考えていたのだ。

 当時の全日本は長州だけでなく、ミュンヘン五輪にフリー100キロ以上級で出場した磯貝頼秀、鶴田と同級生の中央大学レスリング部主将でミュンヘン五輪フリー90キロ級代表の鎌田誠にも声をかけていた。

 しかし、長州獲得には新日本も負けていなかった。73年4月に坂口が合流し、NETテレビが付いて経営的にも安定したことで、本格的に未来のエース獲得に動いた。早稲田大学レスリング部出身でNETの運動部長・永里高平(のちに新日本専務)が鈴木監督、長州を食事に誘い、そこに新日本の新間寿営業本部長が合流して熱っぽく口説いたのだ。

 のちに〝過激な仕掛け人〟として猪木VSモハメド・アリ、IWGP構想を実現させた人物の熱弁は、大学生の長州の心を動かすに十分だっただろう。

 長州は「高級なすき焼きや、ステーキを食べさせられて食い物に釣られたんだよ。ろくにプロレスを観たことはなかったけど、鶴田先輩がやれているなら、俺もやれるかなと漠然と思ったのかもしれないな」と笑うが、韓国籍だった長州にとって、当時は選択できる職業が限られていたという現実もあったのだ。

 73年12月6日、長州は新日本に入団。その選択は、鶴田の「プロレスに就職」と同じ感覚だった。

小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。

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