「追悼!アントニオ猪木」“仕掛人”新間寿が激白120分【1】アリが「美人の奥さんだな」
「元気ですかー! 元気があれば何でもできる」─リング内外で波瀾万丈に、誰にも真似のできない人生を駆け抜けた稀代のレスラーに思いを馳せよう。時は76年6月26日、アントニオ猪木とモハメド・アリの「格闘技...
「元気ですかー! 元気があれば何でもできる」─リング内外で波瀾万丈に、誰にも真似のできない人生を駆け抜けた稀代のレスラーに思いを馳せよう。時は76年6月26日、アントニオ猪木とモハメド・アリの「格闘技...
新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレス‥‥当時の男子団体が一堂に会した、1979年8月26日の日本武道館における東京スポーツ新聞社主催「プロレス夢のオールスター戦」は伝説の大会として歴史に刻ま...
1979年3月8日、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の会談が東京・六本木の中華店「梅紅」で実現した。2人で同じテーブルに着くのは71年11月に日本プロレスの改革について話し合って以来、実に7年5カ月...
日本プロレス界は73年4月に老舗の日本プロレスが崩壊して国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの3団体時代になり、新日本vs全日本&国際という形で展開されていた。 新日本と国際は、アントニ...
1977年、新日本プロレスと全日本プロレス両団体に、のちの日本プロレス界の主役になる男が海外武者修行から凱旋帰国した。 まず3月4日に高崎市体育館で開幕した新日本「第4回ワールド・リーグ戦」に帰...
1977年、新日本プロレスはアントニオ猪木と全米プロ空手世界ヘビー級王者ザ・モンスターマン、モハメド・アリからダウンを奪ったことで話題になったプロボクサー、チャック・ウェップナーとの「格闘技世界一決...
1976年は新日本プロレスが格闘技路線、全日本プロレスは純プロレス路線と、完全に道が分かれた感があったが、アントニオ猪木はジャイアント馬場と全日本を攻撃することによって己の存在感をアピールできること...
1975年の下半期には「全日本プロレス・オープン選手権大会」と「力道山13回忌追善特別大試合」への出場拒否で、ジャイアント馬場に追い込まれる形になってしまったアントニオ猪木だが、密かに76年の新たな...
1974年のアントニオ猪木を軸とした日本人対決ブームの中で「邁進する猪木、逃げる馬場」のイメージを作られたジャイアント馬場だが、翌75年10月30日の蔵前国技館で大木金太郎の挑戦を受けて立って快勝す...
1974年の日本プロレス界は、アントニオ猪木の実力日本一路線で独走態勢に入った新日本プロレスに対して、全日本プロレスは年末にジャイアント馬場が日本人初のNWA世界ヘビー級王座奪取の偉業を成し遂げて一...