筆者は、1987年6月から88年3月まで、モスクワの日本大使館で当時二等書記官だった松尾国男と机を並べて働いたことがある。
その頃の大使館の若手でむしろ松尾はまともな人間の方だった。上司に歯の浮くようなお世辞を松尾はいつも言っていたが、こういう外務省若手は珍しくない。ロシア語もそこそこできた。
ただし、1度だけ気になることがあった。88年3月のことだ。当時、筆者は大使館の政務班に勤務する最末端の職員だった(ランクは三等書記官)。通常、部屋の掃除や書類の整理、お茶くみなどは、庶務担当職員が行う(ランクでは理事官と呼ばれる人たち)。筆者が大使館に勤務し始めたとき政務班の女性職員が結婚、退職してしまった。その後任がなかなか見つからない。
「モスクワの日本大使館には、がさつな男連中しかおらず、残業や休日出勤も多いこの世の地獄」
という悪評が外務省全体に轟いていたため、希望者がいなかったからだ。
官僚の世界において、水は上から下に流れるという物理の法則が適用される。当時、最末席だった筆者が庶務の仕事も兼任していた。
松尾の机のそばの本棚に赤い表紙の本が捨ててある。ゴミ箱から取り出してみると『コンサイス露和辞典』(三省堂)だった。よく使い込んである。表紙を開けると松尾国男と記名してある。松尾が愛用していた辞書だ。もちろんまだ使えるような状態だ。外務省員は、通常、自分が使っていた辞書をゴミ箱に捨てるようなことはしない。
筆者は、
「松尾はよほどソ連(ロシア)が嫌いなんだな。『二度とこんな国には来るものか』と思っているんで辞書を捨てたのだな」
と推定した。辞書が可哀想になった(ゴミ箱に捨てたものは所有権が放棄されているので、筆者のものにしても拾得物横領にはならない)。この辞書を筆者は持ち帰った。この辞書は現在、箱根仙石原にある筆者の仕事場の本棚に保管されている。
筆者は、95年3月末日にモスクワから帰国し、翌4月1日から外務省国際情報局(現在の国際情報統括官組織)分析第一課で勤務し始めた。担当は、ロシアと旧ソ連邦構成諸国の分析だ。96年から松尾が欧亜局(現在の欧州局)ロシア課の首席事務官に就任した。首席事務官とは、他省府での筆頭課長補佐に相当する。実質的な権限は筆頭課長補佐より大きく、課長代理の地位にある。
この頃から、松尾に関する悪い噂が耳に入ってくるようになった。セクハラが激しい、パワハラで休んでいる若い職員がいる、報償費(機密費)を使って女と遊び歩いているという話だ。機密費を使って飲み食いするには「設宴高裁案」という決裁書を書いて課長のサインを得なくてはならない。松尾には課長の代決権がある。自分で起案した「設宴高裁案」を自分で決済しているのだ。
ロシア課の若い職員が松尾が書いた書類の写しを数枚、筆者のところにもってきた。その内容を見て、筆者は腰を抜かした。
(この項続く)
佐藤優(さとう・まさる)著書に『外務省ハレンチ物語』『私の「情報分析術」超入門』『第3次世界大戦の罠』(山内昌之氏共著)他多数。『ウクライナ「情報」戦争 ロシア発のシグナルはなぜ見落とされるのか』が絶賛発売中。