高度経済成長期を経て、バブルの栄華に日本全体が浮かれていた頃、歌舞伎町もまた絶頂期にあった。しかしバブルがハジけ、昭和が終わって平成の御代へと替わった時、キャバレー業界の背後にひたひたと足音が迫ってくる。キャバレー調クラブの新業態の台頭である。実はキャバレーの生き字引と言える吉田氏は、その新業種の黎明期にその創設にも関わっていた。
「ある風俗出版社が経営する『ジップン』というお店を任されて。これは10分で1000円という料金システムでしたが、残念ながら成功しなかった。ただ、その後、時間制で営業したことを考えると、ハシリとは言えるかもしれません」
何にしても、目新しい業態は話題を呼ぶ。そのウリは、キャバレーの大衆性とクラブの高級感という「いいとこ取り」を狙ったものであった。それは、当時の歌舞伎町にあった人気店「キャッツ」や「トレビの泉」などにショータイムが演出されていたことでもわかる。
「われわれキャバレーが王道であるというプライドは変わりませんでした。ただ、あちらに人気があるということは理解していました。だから、追いつかれないように頑張ろうと」
奮闘を続ける吉田氏たちキャバレー業界を尻目に、この新手のキャバレー調クラブには明らかに優位な点があった。それは若い客層の取り込みである。
「若い世代が来なくなったのは確かですが、これは争っても意味がない。無理ですね。男っていうのはえてして自分より弱そうなものを口説こうと思う。強いものには手向かわない。若い男の子から見たら、キャバレーのホステスは手ごわいプロの集団でしかない。一方であちらは若いし、自分より年下もたくさんいる。『狩り』をしようという立場からすれば当然の選択でしょう」
はなから対象が違う。若い客層を奪い合ってもしかたがない——。一理あるが、一定数の客層が流れたのもまた事実だ。それだけに、本来のキャバレーのよさ、大衆性、気安くリラックスできるホステス、ショーの楽しみ‥‥そこでの勝負になるのだが、実はここにも意外なところからライバルが。それは、外国人ホステスの流入である。
「昭和の終盤から平成に入るにつれて顕著になっていった。台湾だとか、韓国だとか、タイだとか、中国だとか、フィリピン‥‥。それらの国のホステスの特徴は、昭和30年代に日本人のホステスが持っていた、必死のサービスでチップをもらって稼ぐような誠実さ。その優しさに日本人の男はグラグラッてなっちゃった。その時、キャバレー業界も気がついたのです。たとえ高い金を払っても、サービスがよければまだまだお客さんはいるんだと。その時にはすでに手遅れでしたがね」
ピンクキャバレーが登場し、ナイトクラブ、新手のキャバレー調クラブ、外国人ホステス——。昭和から平成へと時代が変わり、王道キャバレーはこれらの攻勢をずっとしのいできた。しかし、ついに時代のすう勢にはあらがえなかったようで、
「何か、目に見えない時代の流れが近づいていたのでしょう。それが目に見えてきたのは、東京のキャバレーが消えていった時。『スターダスト』『杯一』『白いばら』そして『ハリウッド』。特にハリウッドの福富(太郎)さんが亡くなった時(2018年5月)には、終わったなと思いました。人には言いませんでしたけどね」
そんな中、吉田氏の「クラブロータリー」は歌舞伎町最後のキャバレーとしてのプライドを見せ、そして今年2月をもって役目を終えた。事実上、東京からキャバレー文化が消えた瞬間でもあった。