「大人の社交場」として一世を風靡したキャバレー。しかし今年2月末、アジアを代表する歓楽街・新宿歌舞伎町では、その歴史に幕が降ろされた。キャバレー全盛期から、その終焉まで——。〝伝説の支配人〟がその歴史を語り尽くす。
夜の街・歌舞伎町。そのランドマークとも言える建物が、区役所通りと通称・かぶき花道が交差する場所にある「風林会館」。6階にあったキャバレー「クラブロータリー」の支配人・吉田康博氏(81)は文字どおり、キャバレーの生き字引と言える人物だ。「歌舞伎町歴」は62年。彼の話す「キャバレー史」は、その全盛期から始まる。上京してきた昭和33年(1958年)のことだった。
「箱の大きい、正統派のキャバレーがその頃の歌舞伎町ではシノギを削っていました。名前を挙げれば『クラブミラノ』『メトロ』『キング』『チャイナタウン』‥‥。われわれ黒服にとってはみな、あこがれの場所です」
当時のキャバレーの威容を知るには、吉田氏が2軒目に勤めた店の様子を聞くとよくわかる。
「さくら通りにあった『おしゃれ茶屋』という店でしたが、今のみなさんではちょっと考えられないようなお店。まず、茶屋というだけあってお座敷で、3階まで上に吹き抜けでした。2階がショーステージで、そこに歌手やダンサーなどがゴンドラで登っていく─。それは豪華絢爛なものです」
現在、さくら通りと言えばロボットショーなどで外国人観光客に人気だが、一方で風俗店もあって客引きが多い。そんなディープな通りが社交文化の中心だったとは驚きだ。
「昔のコマ劇場の前にも人気キャバレーはありました。私が勤めていた『ムーランドール』もそう。キャバレーにどのくらいの影響力があったかというと、私は〝巨城の主〟と呼んでいましたが、有名店に勤務する幹部スタッフたちは胸を張って歌舞伎町を闊歩していましたもの。実際、『俺はムーランドールの次長だ!』なんて言ったら後光が差しているくらい(笑)」
もっとも、後光が差すレベルまで行くには多くの厳しい試練が待ち受けていた。
「キャバレー業界で男は完全な体育会系です。というより、ほとんど軍隊のような厳しさ。でも当時はまだ戦後の名残があり、そしてまた、みな貧しかった。だから耐えられたのでしょうね。こんな話があります。黒服の面接でマネージャーが『キミはケンカが好きかね?』と問い、『好きか嫌いかは別にして、学生時代はけっこうやりました』と答えると『キミは将来性があるね。明日からボーイさんをやりなさい』って(笑)」
吉田氏の話では、単純にケンカが好きなら合格というものではなく、大切なのは「負けじ魂」だという。華やかな世界の一面、強い意志と根性がなければ務まらない世界だったのだ。
「今では考えられませんが、キャバレーはどんな人間でも受け入れた。基準はやる気があるかないか。相手に前科があっても、入れ墨があっても指がなくても─。もっとも、指がない場合はお客さんの前に出すワケにはいかないので、カウンター専門でしたがね。そういった中には、耐えられずヤクザの世界に戻った人もいますが、根性と才能を見せて一国一城の主にまでのし上がった人もいる。文字どおり、実力社会なんですね、キャバレーは」
外にはホステスという華、内には黒服という龍を秘めた男たちによって、キャバレー業界全盛期は牽引されていったのである。