「日本の武将と念持仏」秘録(1)念持仏とは…コンパクト仏像に込められた「個人の悲願」

 日本では古代から自然界に存在するすべてに神が宿るとする八百万の神が信じられてきた。仏教が、インドから中国、朝鮮を経て日本に伝来。仏教の神々に日本古来の神様が加わり、神も仏も混ざり合い、それらすべての像を仏像と呼び、拝むようになる。この「マイ仏像」こそが念持仏である。

 仏教は紀元前5~4世紀に古代インド・ネパール地域から、中国、朝鮮半島を経て、日本には538年に正式に伝来したとされる。釈迦が悟りを開いて「仏陀(ブッダ・目覚めた者)」となったことに始まるが、もともとは偶像を崇拝することは否定されていたので、人間の形をした仏像というものはなかったという。やがて、インドやガンダーラで釈迦の像として仏像が作られるようになる。インドではヒンドゥー教やバラモン教の神様、そして中国では道教や儒教の神様なども仏教に取り入れられ、すでに悟りを開いた存在としての「如来」をはじめ、悟りを求めて修行の途中にある「菩薩」、仏の言うことを聞かない人を憤怒の形相で導く「明王」、仏教や菩薩たちを守る「天部」の神、そうした神々の像も含めて「仏像」と呼ばれ信仰されるようになる。

 歴史家の河合敦氏は、

「日本における仏教は、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏像や経典が朝廷に贈られたことをもって正式に伝わったとされています。

 この折、仏教という外来宗教を受け入れるかどうかという論争が朝廷内に起こり、当時の有力者である蘇我氏は積極的に受け入れるべきだと主張しますが、もともと政治的な対立関係にあった物部氏は『国つ神(祖先神)の怒りを招く』と言って反対(崇仏論争)、崇拝しないことになりました。が、その後に蘇我氏が力をつけ、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして朝廷の実権を握ると、仏教を正式に国教のような形にしていきます」

 馬子は百済からの渡来人の技術などを用いて、飛鳥に日本初の本格的寺院・飛鳥寺を建立。飛鳥寺に伝わる釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は、現存する日本最古の仏像と言われる。

「奈良時代になると、仏教は国を平和に繫栄させると考える(鎮護国家の思想)ようになり、聖武天皇などは各国に国分寺、奈良に東大寺大仏を造りました。が、次第に僧侶の力が強くなりすぎたので、桓武天皇は、平城京から長岡京、さらに平安京に都を遷す際、大寺院の移転を禁じ、奈良仏教の力を抑えようとしました。一方、この頃、新たに最澄(天台宗)や空海(真言宗)が唐から新しい宗派をもたらします。空海は密教を導入しました。空海が持ち帰った密教は、加持祈禱という呪法によって、個人的な宿願を実現するというので平安貴族たちに大人気になります。この頃、貴族の多くは自分だけの仏像を持ち始めるようになります。自宅に鋳物師という職人を招いて、小さな金剛仏を作らせるということが盛んだったと言われています」(河合氏)

 念持仏の起源と言えようか。

(つづく)

※写真は奈良・東大寺

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「平安の文豪」(ポプラ新書)。

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