「日本の武将と念持仏」秘録(3)豊臣秀吉がご利益を3倍ゲットした「三面大黒天」

 やがて、常在戦場にあって常に死を意識せざるを得なかった戦国武将たちは、死後に地獄に堕ちたくない、極楽浄土へ迎えられたいという願いと共に、領土拡張、武運長久、戦勝祈願などの現世利益を念持仏に託していく。

 天下人になった豊臣秀吉が常に持ち歩いた念持仏が「三面大黒天」だという。

「三面大黒天」は、「天部」と言われる仏教の守護神で、日本では、食と財産をもたらすという「大黒天」、戦いの神である「毘沙門天」、そして美と才能、学問の神である「弁財天」の3つの神様が合体したものだと、高橋氏は解説する。

「秀吉は天下人になる前からこの三面大黒天を常に持ち歩いて合戦時には厨子に入れて拝んでいたと言います。高さ16センチほどの小さな仏像です。貧農の家に生まれ、お金も地位も学問もなかった秀吉は、三面大黒天のご利益通りに、天下人にまで出世の階段を上り詰めた。『3つの神様がいるので1度拝めば3倍のご利益があるから』という、いかにも秀吉らしい合理的な精神が表れていると思います」

 三面大黒天は、秀吉の菩提寺である京都の高台寺・圓徳院に安置されている。

 秀吉亡き後に天下人となった徳川家康は、「厭離穢土 欣求浄土」の旗印を掲げて戦い、浄土信仰に篤あつく、白本尊と黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来像を念持仏としていた。

「厭離穢土 欣求浄土」は、穢れた世を離れて、阿弥陀如来の極楽浄土への往生を目指すという願いを込めたものだと、高橋氏。

「家康は桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた時、岡崎の大樹寺に逃れます。大樹寺は家康の先祖が眠る浄土宗の寺で、家康はこの寺で切腹しようとしますが、そこで出会った上人に、阿弥陀如来のもとで泰平の世を築くべきだと諭され、『厭離穢土─』の文字を旗に書いたとされます。そして大樹寺にあった阿弥陀如来を譲り受け、それが『白本尊』と呼ばれる仏像だと言われています。彫ったのは名仏師・安阿弥快慶と伝わっています。その後、家康が本願寺門徒との戦い(三河国一向一揆)を平定して三河を統一した時に手に入れたのが『黒本尊』。この2体の阿弥陀如来像を家康は御座所の左右に置いて片時も念仏を忘れず、出陣する際には黒本尊を携行し本陣に安置していたといいます」

 越後の虎の異名を持ち戦国最強と謳われた上杉謙信は、7歳の時に曹洞宗の禅寺に預けられ、生涯仏教の教えに従って妻帯をしなかった。馬印の旗に毘沙門天の「毘」の一字を染め抜き、みずからを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、春日山城に建てた毘沙門堂に籠って毘沙門天と一体化する儀式を行っていたという。

「謙信の戦いは、自身の領土を拡大しようという野心からではなく、関東管領として朝廷や室町幕府を守る戦いでした。毘沙門天は、仏法の守護神ですから、みずからを天皇や将軍の守護神であると考えていたのではないかと思います」(河合氏)

(つづく)

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「平安の文豪」(ポプラ新書)。

高橋伸幸(たかはし・のぶゆき)北海道出身。歴史探偵家。「一個人」「歴史人」などの編集長を経て独立。著書に「戦国武将と念持仏」(KADOKAWA)、「戦国の合戦と武将の絵事典」(成美堂出版)などがある。

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