「日本の武将と念持仏」秘録(5)「神」になりたかった三英傑

 織田信長は、戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、「第六天魔王」になると宣言したと言われている。「第六天魔王」とは、一般的に仏教の布教を邪魔する悪神とされているが、歴とした仏教の神様の1人である。比叡山の焼き討ちをした信長へ武田信玄がそれを批判した手紙を出し、最後に「天台座主沙門・武田信玄」と署名したことに対して、信長は返信に、それなら俺は「第六天魔王」だと署名し、返したことから、みずから神になろうとしたと言われている。河合氏は、

「信長がみずから第六天魔王を称した手紙は残っておらず、歴史学会では色々異論がある」

 と、その信憑性に疑問を呈する。

 明確に神になろうとしたのは豊臣秀吉と、河合氏は言う。

「秀吉は、京都の方広寺を造り奈良の大仏よりも巨大な大仏を建立。その先の阿弥陀ヶ峰に霊廟を作り、遺言では、『新八幡として祀られたい』という希望を持っていました。朝廷からは『新八幡』ではなく『豊国大明神』の神号を与えられましたが、結果としては神様になっています」

 なぜ新八幡ではなく大明神なのかは諸説あるが、如来や菩薩が日本の神として現れるという本地垂迹説に反対する吉田神道の吉田兼見の意見が天皇を動かして、「大明神」になったという説がある。

 徳川家康は豊臣家を滅亡させると、秀吉を祀る豊国社を破壊して豊国大明神の神号も剝奪。神様の座から引きずり降ろしてしまう。

 一方、家康は死後、日光東照宮に神様として祀られ、「神君家康公」と呼ばれることになる。

「家康は自分が死んだ後のことについて、秀吉のような壮大な遺言は述べていない。久能山に葬って1年後に日光山に小さなお堂を作って神として祀れとのみ語っただけで、大権現になりたいとは言っていない。しかし、ここでもその死後、『大明神』にするか『大権現』にするかで揉めて、家康のブレーンだった天海僧正の意見を息子の2代将軍・秀忠が採用して、『東照大権現』として日光東照宮に祀られることになったのです」(河合氏)

 神仏習合も三英傑に極まれりと言うべきか。

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「平安の文豪」(ポプラ新書)。

「週刊アサヒ芸能」4月4日号掲載

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