日本史上で3大悪女と言われる女性がいる。1人は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻で、頼朝の死後は出家して尼将軍と呼ばれ、幕府を支配した北条政子。そして、室町幕府8代将軍正室の日野富子、さらに豊臣秀吉の側室となった淀殿である。
北条政子は、嫉妬深く気の強い女性として、しばしば悪女とされてきた。頼朝との間に待望の男子である頼家を産んだばかりの時、自らの留守中に頼朝が浮気したことを知った政子はその浮気相手の「亀の前」という女の屋敷を手下に命じて破壊してしまう。「後妻(うわなり)打ち」と呼ばれる、有名なエピソードだ。
歴史家の河合敦氏は、
「正室の他に愛人や妾がいて当然という時代ですが、それは京都での常識。関東では一夫一妻が多かったので政子の怒りは正当なものでした」
昨年「歴史をこじらせた女たち」(文藝春秋)を上梓した歴史作家の篠綾子氏は、
「北条政子は、2男2女を産んでいますが、2代目頼家、3代目実朝、さらに頼家の遺児・公暁、皆、不幸な死に方をしています。弟である北条義時が、2代目鎌倉殿になった頼家の殺害命令を出しますが、政子は、それを止めなかった。日本人の理想とする母親像からはかけ離れてしまったとは思います」
日野富子は、自分の息子を将軍の跡継ぎにしたいがために応仁の乱を起こしたと理解されてきた。しかし、河合氏は、
「すでにそれ以前に、守護大名や管領という、将軍を補佐する家柄の畠山家や斯波家の勢力争いがあり、足利将軍家に起こった跡目争いは、乱の原因の一つにすぎないという説が近年の研究では有力になってきています」
と言う。
飢饉で京都の鴨川に死体が累々となるほど人々が苦しむ中、東山に銀閣寺や庭園を作って花見や宴会をしていたポンコツ将軍・義政に代わって、富子は政治を取り仕切る。応仁の乱の時には、西軍、東軍双方の大名に高利で金を貸し付けたり、京都に入る際に関税をかけたりしたことで、守銭奴などと揶揄された。
「富子が高利貸しをし、税を設けたのは、朝廷にお金を入れるためだったり、銀閣や庭園にやたらに金をつぎ込む夫の義政に金を貸し与えたり、火の車の幕府財政のためにお金を作っていたわけで、決してその金で私腹を肥やしたり贅沢をしたわけではないのです。そして、11年間もダラダラと続いた応仁の乱を富子は大名たちにお金を貸し付けて、結果、撤兵させ、乱を収束させたのです」(河合氏)
9代義尚は、父親の義政同様の女好き酒好きで、義政の側室にも手を出し、義政もまた息子の愛人に手を出すなど、親子で愛妾を取り合ったという色ボケ父子。この父子に悩まされながら、富子はむしろ賢婦人だったと言えるのではと、河合氏。
3人目は豊臣秀吉の側室・淀殿である。無類の女好きで知られる秀吉には、正室のねね(北政所)や側室が数十人いたにもかかわらず、子供が生まれなかった。淀殿だけが秀吉の子を産んでいるので、淀殿が他の男と関係してできた子を秀吉の子だと騙したのではないかという疑惑がある。当時秀吉は、「淀殿の産んだ秀頼は秀吉の子ではない」という落書を京都・聚楽第の壁に書かれ激怒。門番をしていた17人の耳と鼻を削ぎ、犯人と思しき者の住む町を焼き払い無関係の人たちを130人も殺している。決して、触れられたくない事実だったのかもしれない。
淀殿は、戦国一の美女と言われた信長の妹・お市の方の長女で、3姉妹の中で最もお市の方に似ていたと言われるだけに、絶世の美女だったと思われ、秀吉と結婚した時には18歳、秀吉が50歳だった。現在なら女子高生と50オヤジの親子ほどの年の差婚、これも世間からの嫉妬と不興を買い、悪女説が広まった一因と言えそうだ。
桐畑トール氏は、歴史上の悪女というのは、非常にできた女性と紙一重だと自説を語る。
「淀殿でいえば、結果的に豊臣を滅亡に導いてしまったこと。そしてまた息子・秀頼を一人前の武将に育てることができなかったこと。淀殿は、浅井長政の小谷城、母・お市の方が柴田勝家に嫁いだ北ノ庄城と、2回の落城を経験しているのに、大坂城での和睦の仕方など、そこから何も学んでない。つまり時代の流れが読めていないというのが、紙一重で悪女に転がってしまった原因。そしてそこには、織田信長の妹であるお市の方の血統だという名家ブランドのプライドがあった」
淀殿の妹で浅井3姉妹の末娘のお江が、政略結婚で徳川秀忠と結婚したのは3度目、お市、淀殿と同じく嫉妬深く気の強い女だと言われている。
河合氏はこう読み解く。
「秀忠と結婚したのはお江が23歳、秀忠17歳の時で、秀忠は年上のお江に逆らえず尻に敷かれたようです。お江と秀忠の間には長男の竹千代(後の家光)と次男の国松(忠長)という2人の男児が生まれましたが、お江は家光を嫌って次男の国松を溺愛して世継ぎにしようとします。そこで、家光の乳母であるお福(春日局)が家康に長男の竹千代を世継ぎにするよう懸命に訴えて、家光はなんとか3代将軍になれたわけです。一部の研究者の間では、お江が家光を嫌っていたのは、家光が春日局の子だったからではないかとも言われています。いずれにしても、女が家督相続に口を出したというので、お江も春日局も当時の社会からは悪女と見られたのです」
お江の嫉妬深さの罪について桐畑氏は言う。
「お江は秀忠に側室を一切認めなかったので、秀忠に隠し子(保科正之)が生まれた時には、お江に見つかったらエライことになるっていうので、保科家に養子に出されて、ずーっと隠されていました。異母兄弟の家光が3代将軍になってからやっと家光に謁見して、3代家光、4代家綱と将軍を支えていきますが、保科の側からすれば、お江のせいで生まれてすぐに捨てられたので、鬼嫁に見えたんではないでしょうか」
徳川家には将軍の跡継ぎを作るために江戸城には最盛期1000人にも及ぶ奥女中が暮らす大奥が置かれた。将軍に見染められ、将軍の子を産むことで女たちは大きな権力を手に入れることができた。中でもお美代の方は、側室が数十人、子供が50人以上の〝オットセイ将軍〟徳川11代・家斉の側室で、家斉との娘を2人産んで大奥のトップに君臨、家斉に色々なおねだりをした女として有名だ。
河合氏は、
「父親が住職をしていたお寺を将軍家の祈禱所にし、本来は城外に出ることが許されない奥女中たちを代参させる。奥女中たちは代参のついでに歌舞伎見物をしたり、イケメン僧たちとの密会に走ったり、今でいえばホストクラブのような状態になっていました」
政子や富子などは嫉妬深くても、夫以外の男性と関係を持ったわけではないが、「薬子の変」で歴史に名を残す藤原薬子は悪女の典型とも言えようか。
「薬子は夫がありながら、自分の娘が嫁いだ相手・平城天皇と恋仲になり、娘から天皇を奪い取る。その道ならぬ恋で最後は自殺に追い込まれるわけですが、他の男と密通したり、男を奪い取ったりというのは、やはり悪女と呼ばれても仕方ないでしょう」
と河合氏。続けて、
「最近の教科書では、『薬子の変』ではなく、『平城太上天皇の変』と言われています。かつては薬子が桓武天皇の皇子である平城天皇をたぶらかして、『あなた、もう一回天皇になってよ』と言って、嵯峨天皇から権力を奪い返そうとして失敗したと言われてきましたが、近年の研究では、変を起こした中心は平城天皇自身だったということがわかってきました」
他にもなかなかの悪女がいると桐畑氏は指摘する。
「ぼくは政子よりも、むしろ昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、宮沢りえさんが演じた北条時政の継室に入った牧の方(りく)や北条義時の後妻で旦那を毒殺しようとした伊賀の方のほうが悪女に思えます。年の離れた時政を籠絡して、後妻業の女のごとく娘婿を将軍に据えようとしたり、娘婿と対立した畠山を滅ぼさせたり、頼朝の浮気を政子に告げ口したのも牧の方でした」
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「日本史の裏側」(扶桑社新書)。
篠綾子(しの・あやこ)埼玉県生まれ。「春の夜の夢のごとく 新平家公達草紙」でデビュー。著書に「青山に在り」「歴史をこじらせた女たち」ほか、「更紗屋おりん雛形帖」「江戸菓子舗照月堂」シリーズなど。
桐畑トール(きりはた・とーる)72年滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演、「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。