日本史を変えた悪女たち(3)わがまま美少女「待賢門院」は数多の貴族と肉体関係に

 平安の世の悪女たちを俯瞰してみると、戦国や江戸時代に比べ、女たちが政治的にも性事的にも奔放にふるまっているかに見える。

 河合氏は、その原因を次のように解説する。

「招婿婚と言って、妻方に婿を迎えたり、子を母の屋敷で育てていたので、母やその親戚が子に与える影響が大きかった。娘を天皇に嫁がせ天皇の外戚として権力を振るった摂関政治で知られる藤原道長なども、もともとは、お姉さんが一条天皇を産んだことで、力を持てたわけです。

 待賢門院(藤原璋子)も、7歳で白河上皇に見染められ、その後愛人になったわけですが、この少女は数多の貴族たちと肉体関係を持ち、奔放な性格。白河上皇が摂関家の長男と結婚させようとしたものの、断られてしまったエピソードがあります。しかたなく自分の孫である鳥羽天皇と結婚させ、その結果、子供をポンポン産みますが、長男の崇徳(天皇)はどうも自分の子ではないんじゃないかと鳥羽天皇は疑ったようです。鳥羽との結婚後も璋子は白河上皇との関係を続けていたと言われています」

 篠氏も同じ見方のようで、

「璋子は、若い頃は愛すべきわがまま少女で、白河上皇も鳥羽天皇もその魅力に翻弄されたのではないかと思います」

 待賢門院には子が大勢いたので皇后の地位は安泰だと思っていたところ、美福門院(藤原得子)が登場して、待賢門院の地位は脅かされることになる。篠氏は続けて、

「鳥羽上皇は待賢門院への当てつけもあってか、得子に並々ならぬ寵愛を注いで、得子との間にできた皇子を(近衛)天皇にします。得子は天皇の生母として皇后となり、美福門院の院号を得ます。しかし、近衛天皇が17歳で急逝すると、璋子の息子の雅仁親王を即位させます。これが後白河天皇。崇徳上皇はこれによって将来、天皇の親となる道を閉ざされ、鳥羽上皇の崩御後、この後白河天皇と崇徳上皇の対立から保元の乱へと発展していきます」

 奈良時代の女帝・孝謙天皇(称徳天皇)は、道鏡という僧に入れ揚げ、皇位の継承や政治を混乱させた悪女と言われる。

「聖武天皇と光明皇后の第一皇女。日本史上唯一の女性皇太子になり、聖武天皇の後に孝謙天皇として即位します。最初の頃は、母親の光明皇后のお気に入りだった藤原仲麻呂の後見を受けて政治をしていましたが、光明皇太后が亡くなったあと、自身も体調を崩した時に病気平癒の祈禱で道鏡が現れ、彼を寵愛していくことになります。藤原仲麻呂の乱の後、孝謙は重祚(天皇に2度なること)して称徳天皇となります。実力で天皇に返り咲いた彼女に、もはや意見できる者はなく、道鏡を法王に任命し、やりたい放題になっていきます。このことが孝謙・称徳が後に悪女と言われた最大の理由です」(篠氏)

 巷間、道鏡は巨大なイチモツの持ち主で、その虜になったのが女帝・孝謙天皇であるとの逸話がある。河合氏は、数百年後に書かれた俗説で、「女帝」を淫乱な女だったと貶めるための創作だと斬り捨てる。阿野廉子のエピソードなどもその一例だ。

「軍記物語『太平記』では、廉子は、正妃の西園寺禧子から後醍醐の寵愛を奪った傾城傾国の悪女と書かれていますが、この記述は『太平記』だけに出ていて、他の史料には出てきません。廉子が台頭したのは、正妃の禧子の死後なので、太平記とは矛盾がある。後醍醐天皇自体は、20人ぐらい奥さんがいて、36人の子を作っているというので、驚くべき精力ですが、廉子も5人の皇子、内親王を産み、南朝を支え、南朝の2代目天皇となった後村上天皇の母として皇太后になっています。後醍醐天皇が隠岐に島流しにされた時には、廉子だけを連れていったと言われていますから、相当にお気に入りだったことは事実です」(河合氏)

 世に名高い悪女たちは、一様に美女であり、奔放でわがままで、歴史の表舞台に現れもし、また、歴史の巨大な歯車に関与もしている。関与したがゆえに、悪女のレッテルを貼られたと言ってもいいだろう。もしも、今、眼前にこの悪女たちがタイムトリップして現れたとしたら、〝奈落に堕ちるのも厭わずに〟その抗えない魅力に嵌ることだけは、疑いがなさそうだ。

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「日本史の裏側」(扶桑社新書)。

篠綾子(しの・あやこ)埼玉県生まれ。「春の夜の夢のごとく 新平家公達草紙」でデビュー。著書に「青山に在り」「歴史をこじらせた女たち」ほか、「更紗屋おりん雛形帖」「江戸菓子舗照月堂」シリーズなど。

桐畑トール(きりはた・とーる)72年滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演、「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。

*週刊アサヒ芸能8月3日号掲載

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