国交回復50年、鄧小平の「日本に学べ」大号令と中国人経営者が心酔した「稲盛和夫」

 9月25日、日中国交が回復して50年になる。
 
 振り返ると、この50年間の中国の変化の速度には圧倒される。当時の中国は、世界の最貧国の1つだった。多くの国民は1日3度の飯を食うこともままならなかった。
 
 中国人は夜が明けて一日が始まると、「チーファンラマ?(ご飯を食べましたか?)」と、挨拶を交わしていた。つまり、ごはんが食べられたかどうかが挨拶(文化習慣)になるほど、国民はみな貧しかったのである。
 
 毛沢東は最貧国からの脱却を目指して“竹のカーテン”(鎖国)を止め、外交に道を開いた。1972年の日中国交回復が中国変身の道だった。

 6年後の1978年に日中平和友好条約が結ばれると、日本は政財界が一丸となって中国の経済復興に「カネと技術と人材」を注ぎ込んだ。
 
「改革開放」に舵を切った鄧小平が「黒猫でも白猫でも、ネズミを捕る猫が良い猫だ」と、「カネ儲け」へ向けて号令を出すと、閉塞感に包まれていた中国全土の空気が変わった。
 
 同年、来日した鄧小平は日本製鉄、松下電器、日産自動車を見学し、「工場が整然と動いている」ことに驚き、新幹線に乗って「馬がムチを当てられて疾駆するように早い」と感動して、帰国後の共産党幹部学校で「日本に学べ」と叱咤した。
 
 鄧小平のスローガンは、中国全土の共産党幹部の口伝えに「国民に一刻も早く日本に追いつき、1日3度の飯が食べられるような豊かな国になろう」と伝播していった。一方、若者は閉塞した中国から抜け出そうと、海外を目指した。
 
 貧しい中国はカネも生産技術もなく、ましてやそれを担う人材もいなかった。そんな中国に、日本の大手企業は儲けを度外視して進出し、技術を授けた。
 
 中国を鉄鋼生産で世界一に押し上げた日本製鉄、中国家電産業の礎となった松下電器、中国の建機や重機を世界レベルに引き上げたコマツなど、進出企業の関係者は口を揃えて言う。
 
「私たちは本気で中国が豊かな国になるよう指導した。彼らも学生のような素直さで、日本人の言葉を懸命にノートに書きとり、徹夜で復習し、翌日は質問を繰り返した」
 
 そうして中国は、あっと言う間に日本のライバルになった。
 
 その過程で、中国は日本の技術ばかりか経営ノウハウも同時に学んだ。1990年から2010年代にかけて中国の書店には松下幸之助や土光敏夫、本田宗一郎ら日本の経営者のビジネス書が並んだ。中でもひときわ人気だったのが、一代で売上高1兆円を超す世界的企業を生み育てた京セラの稲盛和夫の本だった。
 
 筆者は、中国で書道教室と日本語学校を経営する30歳の張雲徹さんと知り合った。中国が「世界の工場」と呼ばれ、世界貿易機関(WTO)への加盟を目指していた1990年代後半のことだ。
 
 張さんは「私は稲盛さんを尊敬している」と言い、鞄から取り出した本「稲森和夫経営語録」は傍線と書き込みでボロボロになっていた。張さんはこう言った。

「中国人は他人を蹴飛ばして、自分が成功できると考えます。ところが、稲盛さんは物事の判断を損か得かではなく、善か悪かで考えます。また自分よりも他人の利益を優先します。中国人にはあり得ない考え方ですが、それだから人を心から動かせるのですね。これが本当の指導者、経営者の姿です」
 
 暗記するほど繰り返して読み、学校の生徒にも教えているという。
 
 実際、中国での稲盛和夫の人気はすさまじかった。改革開放後の中国では「金が命」「命にカネが優先する」という風潮が漂っていたが、それだけに稲盛和夫の「利他のこころ」は衝撃を与えた。中国人経営者の心の闇を開放したといっても過言ではない。
 
 中国では稲盛和夫の著書が10冊以上翻訳され、543万部も売れたという。

(団勇人・ジャーナリスト)

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