新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【23】馬場、猪木が相次いで米メジャー王座に

 1979年8月26日、東京スポーツ新聞社創立20周年記念事業として日本武道館で開催された「プロレス夢のオールスター戦」では、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲が7年8カ月ぶりに実現した。

 試合後には猪木の「馬場さん、次にリングで会う時は闘う時です!」というアピールに馬場が「よし、やろう」と答えて最高のエンディングを迎えたが、実際には、猪木からの数日前の電話(馬場は内容を明らかにせず)と、試合後のアピールによって、馬場は「もう猪木と絡むことはない」と心に誓ったという。

 だが、新日本プロレスは違った。当時の新日本は国際プロレスと友好関係にあったが、「馬場vs猪木実現の脈あり」と判断して全日本に急接近したのである。

 オールスター戦から1カ月後の9月27日、赤坂のヒルトンホテル(現在のザ・キャピトルホテル東急)で馬場と猪木の代理人の新間寿取締役営業部長が揃って記者会見を行ったから報道陣は驚いた。

 内容は、10月5日の後楽園ホールで国際が王者ネルソン・ロイヤルに阿修羅・原が挑戦するNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権を開催することに対するクレームだった。

 当時、NWA世界ジュニア王座は空位だとされ、11月にもオクラホマで王座決定トーナメントが行われるとされていた。新日本はそこにWWFジュニア王者の藤波を送り込むつもりでいた。ところが前王者のロイヤルがお手製のベルトを使って王座を私物化し、勝手に防衛戦を行っていた。

 新日本には、NWAの有力メンバーでもある馬場にも声をかけて共同の抗議記者会見を開くことで友好関係をアピールして、馬場vs猪木実現の機運を高めるという目的もあったのだ。

 馬場にしてみれば、正式に王者と認められていない選手が、NWAに加盟していない団体のリングでタイトルマッチを行うことへのクレームは、NWAのメンバーとして当然のこと。

 しかし、周囲が馬場vs猪木実現に向けてのムード作りをしていることを察知した馬場は、そうした空気を払拭するために大きな勝負に出た。改めて〝世界の馬場〟をアピールするべくNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスに10月31日の愛知県体育館で挑戦、必殺ランニング・ネックブリーカーで5年ぶりに世界の頂点に返り咲いたのである。

 馬場は今度こそ世界王者としてアメリカサーキットすることを目論み、5日後の宮崎におけるリマッチではレイスを退けたが、その2日後の尼崎でレイスの執念に屈して、74年12月にジャック・ブリスコから奪取した時と同じく1週間天下に終わった。

 たとえ1週間とはいえ、馬場が再び世界の最高峰に立ったことは猪木に大きな衝撃を与えた。猪木もNWAのメンバーだったが、当時の王者のレイスは馬場の親友でもあり、新日本が招聘することは不可能だった。

 そこで目を付けたのがニューヨークのWWFヘビー級王座だ。WWFの全権を握っていたビンス・マクマホン・シニアと交流を深めて78年春にWWF会長に就任した新間の悲願は、猪木を日本人で初めてのWWF世界王者にして、ニューヨークMSGのリングに立たせることだった。

 馬場のNWA世界奪取から1カ月後の11月30日、徳島市体育館で王者バックランドに4度目の挑戦。試合の途中でリングサイドに現れたタイガー・ジェット・シンに気を取られたバックランドにバックドロップで勝つという、やや不本意な内容だったものの、遂に猪木はWWFのベルトを腰に巻いたのだった。

 この時点で猪木は12月17日のMSG定期戦への出場が決まっていたが、馬場と同じく王者として渡米することはできなかった。12月6日の蔵前国技館でのリマッチがシンの乱入によって無効試合になってしまい、初防衛は認められたものの、猪木は試合内容を不服として王座返上。12月17日のMSGで猪木vsバックランドの王座決定戦が行われると思われたが、実際にはバックランドとボビー・ダンカンの間で王座決定戦が行われて、猪木はグレート・ハッサン・ザ・アラブ(アイアン・シーク)とのNWF防衛戦が組まれた。

 この大会は7大タイトルマッチが組まれたビッグショーで、1カ月前からバックランドvsダンカンが宣伝されていたためにカード変更ができないという現地の事情があった。

 新間はバックランドvsダンカンの前にベルトを持ってリングに上がると「これは空位になった王座の決定戦である」と宣言。

「日本で猪木がチャンピオンになった事実をなきことにしたくなかった。アメリカのファンにも事実を知ってもらいたかったから、会長の責務としてベルトを持ってリングに上がったわけだよ。ファンの知らないところでベルトの貸し借りのようなことがあったとしたら、権威がまったくなくなってしまうからね」と新間。それは〝見えざる力〟への精いっぱいの抵抗だった。

小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。

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