「いろいろあっても、お互いの立場を尊重していた業界じゃないですか。それが相手のトップスターを取るという喧嘩の仕方をしてくるなら、こっちもやらなきゃいけないということで、その後にすぐに報復措置に入りました。やられたら、やり返す‥‥興行戦争であり、興行戦争の名を借りたテレビ戦争でもあったわけですから」と、1981年春のトップ外国人アブドーラ・ザ・ブッチャー、第3の男タイガー戸口の新日本プロレスによる引き抜き事件を振り返るのは、当時の日本テレビ「全日本プロレス中継」プロデューサーの原章である。
ブッチャー引き抜きの直後にプロレス・マスコミの間には「カナダ・トロントのタイガー・ジェット・シンの自宅に全日本の使者だという人間から電話があって、招聘に関する具体的な交渉を行った」という未確認情報が駆け巡った。さらに話に尾ひれが付いて「電話したのはドリー・ファンク・ジュニアらしい」「いや、ザ・シークのようだ」という話も出回った。
実は、全日本から誘いがあったという情報の発信源はシン本人だった。ブッチャーが新日本の川崎市体育館大会に出現した3日後の5月11日に来日したシンが「日本に来る前に全日本のブッキングを担当しているという男から電話が入り、週8000ドルで3年契約を結びたいと言われたが、どう思う?」と新間寿取締役営業本部長に話したことが広まったものだ。
新間はシンのギャラアップを図っての駆け引きだと判断して「そんなにいい条件なら、1年ぐらいなら他団体に行ってもいいんじゃないか?」と答え、引き留められなかったシンは「それなら全日本には行かない」と言ったという。
何事もなかったようにスケジュールをこなして6月5日に帰国したシンだったが、6月24日の蔵前国技館の「3大スーパーファイト」は直前でキャンセル。スタン・ハンセンと組んでアントニオ猪木&ダスティ・ローデスとのカードが発表されていたが、新日本は急遽、猪木&谷津嘉章vsハンセン&ブッチャーに変更し、これがブッチャーの新日本初登場になった。
そしてシンは7月3日の熊谷市民体育館における全日本の「サマー・アクション・シリーズ」開幕戦に出現。ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田vsビル・ロビンソン&ディック・スレーター戦に乱入して4人をメッタ打ちにした。
ブッチャーを引き抜かれてから2カ月弱、全日本は報復として新日本のトップ外国人のシンを抜き返したのである。
それまで「企業戦争とは言っても、この業界ならではの守るべきルールというものがある」としていた馬場だが、このシンの登場について「俺が直接交渉したわけではないけれども、俺の全日本プロレスの将来を心配してくれるブレーンが動き、俺が黙認したということは、間違いなく最終的に俺がやったことと思っていただいて結構」ときっぱりと言った。その顔には凄みがあった。
「俺がやったことと思っていただいて結構」と言った通り、実際に動いたのは馬場自身だった。シンが新間氏に言った「日本に来る前に全日本の使者から電話があった」というのは嘘で、実際には来日2日後の5月13日に馬場が京王プラザホテルのシンの部屋に電話を入れたのが最初の接触だ。そしてシンが地方サーキットから京王プラザホテルに戻ってきた5月19日にも、馬場は電話している。
馬場は「スーパー・パワー・シリーズ」終了後の6月13日に日本を発つ。報道陣には「このオフはハワイから台湾を回ってこようと思っている」と語っていたが、実際には日本テレビの原プロデューサーを伴ってアメリカ本土に向かった。渡米前の6月9、10日にはカナダ・トロントのシンの自宅に電話を入れて会談のアポも取っていた。
ロサンゼルスからテキサス州ダラスに入って、全日本の外国人ブッカーを務めていたテリー・ファンクとミーティング。その後はフロリダ州タンパに移動してプロモーターのエディ・グラハムやドリー、ハーリー・レイスと旧交を温め、17日の夕方にカナダ・トロントに到着した。
そして翌18日、トロントのホテルで馬場─シン会談が行われた。
「馬場さんが〝ひとりでシンに会ってくるから、ちょっと待ってて〟と、シンと待ち合わせしているホテルに行きましたから、私は立ち会っていません。もしかしたらレスラーではない第三者が入るのをシンが嫌がったのかもしれませんね。法的な話になったら私も呼ばれたかもしれないけど、その必要はなかったです。それまでに馬場さんとシンは何度も電話で喋って確認しているわけですから。新日本との契約がなかったから、トロントですぐに契約できたし、すぐに来ることも決まったんです」(原)
馬場はブッチャーが新日本に出現したわずか5日後にシンに接触、引き抜きを仕掛けていたのである。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。