生家は北海道苫小牧市の生産牧場。もともとは林業を営み、山で伐採した木を農耕馬に曳かせていた。7人きょうだいの四男として生まれ、兄たちと一緒に馬の世話や作業を手伝いながら過ごす日々。大学時代に中学校の教員免許を取得したが、その道に進むことはなかった。
「人に何かを教えるのは難しい。その点、馬の世話には何倍もの自信があったからね」
大学を卒業すると、父の知人が営む青藍牧場(北海道登別市)の仕事を手伝うようになった。そこで責任者の田中義熊さんから「イギリスで勉強してきたほうがいい」と勧められる。父は反対したが、母が「和雄には和雄の夢がある」と背中を押してくれた。
近代競馬発祥の地に対する憧れが募り、1973年に単身で渡英。ニューマーケットのプリチャード・ゴードン厩舎で厩務員として働いた。調教師・藤沢和雄のホースマン人生を振り返るにあたり、その4年間を抜きには語れない。
「Happy people make happy horse」(毎日、おおらかに笑っている人たちが幸せな馬を育てる─)。
当時、同僚のション・マギーにかけられた言葉が大きな支えになった。
「毎朝、おはようの挨拶から始まり、馬たちに明るく声をかける。すごく大事なこと。しぐさや表情で返してくるし、そうした〝会話〟の中で信頼関係が築かれる。ワンコやネコちゃんたちと同じですよ」
イギリスで学んだことの全てが〝藤沢流〟の原点だ。
「おはよう」「今日は元気がいいなあ」「あの馬、どうだい?」「ちゃんと様子を見ておけよ」
毎朝のトレセンでも管理馬やスタッフ、調教師仲間や他厩舎の従業員に明るく声を飛ばす姿は見慣れた光景。そこにはレジェンドならではの存在感というか、どこか特別な空気が流れていた。
26歳の時にイギリスから帰国すると菊池一雄厩舎の調教助手になり、カツトップエースの2冠制覇(皐月賞&ダービー)に携わった。その9カ月後に菊池調教師が他界‥‥。同厩舎の解散に伴い、83年からは野平祐二厩舎に在籍する。この年の春、あのシンボリルドルフが入厩してきた。スタッフの一人として7冠馬の調教にも携わり、「かけがえのない財産」を得た。
その一方、馬との接し方などイギリスとは何もかもが違う現実に戸惑う日々。
「やりたいようにやるには調教師になるしかない」
87年に調教師免許を取得し、翌88年に厩舎を開業した。集団調教に馬なり調教、運動時間や厩舎作業の改善など‥‥。馬本位の信念に基づき、与えられた枠組みの中で理想の馬づくりに邁進した。
「今と違い、昔はビシビシと追う調教が主流だった。馬なりの調教で勝てるほど甘くはないだとか、何頭も集団で調教をするなんて危ないだとか‥‥。そんな低次元の話が聞こえてきた。強い調教で鍛えるより、大事なのは普段の積み重ね。何も特別なことはしていない。どれもイギリスでは当然のことです」
そうした雑音に屈せず、93年のマイルCS(シンコウラブリイ)でGⅠ初制覇。この年は初めてJRA賞の最多勝利調教師にも輝き、開業5年目でトップの座に就いた。
結果を出し始めると、しだいに藤沢流のスタンスに倣う厩舎も増えていく。馬の扱い方や調教の概念を改め、当たり前ではなかったことを当たり前にした。それこそが大きな改革だ。
これまでJRA賞の最多勝利調教師に輝いたのは計12回。98年にはタイキシャトルでフランスのGⅠジャック・ル・マロワ賞を制覇した。他にもタイキブリザードなど外国産馬を中心にGⅠを勝ちまくり、チャンピオントレーナーの地位を確立。2000年代もシンボリクリスエス、ダンスインザムード、ゼンノロブロイなど幾多の名馬を手掛け、GⅠのタイトルを積み重ねていく。しかし、3歳牡馬のクラシックレースには不思議と縁がなかった。
特別寄稿・和田稔夫(わだ・としお)「週刊Gallop」記者。1974年生まれ。大学4年の時にトラックマンを夢見て「競馬エイト」編集部でアルバイトを開始。その後「サンスポ」レース部を経て「週刊Gallop」記者に(現在は本誌予想を担当)。現場一筋で01年頃から藤沢和雄厩舎番を務めた。
*競馬・藤沢和雄の「革命伝説」35年(2)につづく