競馬・藤沢和雄の「革命伝説」35年(3)ダービー初挑戦後自分に腹が立った

 藤沢和師のダービー初挑戦は開業2年目の89年。トライアルの青葉賞(2着)で優先出走権を得たロンドンボーイを送り込んだ。結果は24頭立ての22着。

「あの時はダービーに行けることを本気で喜んだ。その瞬間は今でも思い出せる。いい勝負になるんじゃないかと思っていたけど、大きな間違いだったね。レース後はヘロヘロになっていた。勝てるものなら勝ちたいけど、どの馬もダービー(春のクラシック)で競走生活が終わるわけではない。若い時期に無理をさせれば将来を台なしにしてしまう」

 本番を前に馬の体調が下降していたことを見極められず、目の前の大舞台に合わせてしまった自分に腹を立てた。

「一勝より一生」─。

 イギリスで学んだ馬づくりの基本に立ち返り、馬本位の信念を胸に強く刻んだ。以来、次にダービーを使うまでには13年もの月日が流れた。

 決して避けていたわけではない。その間もヤマトダマシイやクエストフォベスト、そしてバブルガムフェロー‥‥。春のクラシックを意識させる馬たちとの出合いもあるにはあったが、ともに骨折のアクシデントに見舞われていた。

「改めて思い返すと複雑な気持ちになる。それ以外にも大成させられなかった馬たちは少なくない。うまくいったことより、失敗したことのほうが多いしね。今なら当時とは違う競走生活を送らせてあげられるんじゃないかと思いますよ」

 それでもバブルガムフェローは秋に復帰し、強力な古馬を相手に天皇賞を勝利した。3歳馬(当時は4歳の表記)の秋天制覇は史上初の快挙。距離やコースの適性を重視した采配で歴史を変えた。

「そう、あの馬に適した距離のレースを使っただけのこと。サンデーサイレンスが種馬として導入され、日本の競馬を取り巻く環境も激変した。競走体系の整備や血統の進化、施設に生産や育成の技術など、全体がレベルアップしたことは間違いない。何より、スピードが大事だということ。世界的にもマイラーや2000メートルを走れる〝速さ〟が重要視されていることは紛れもない事実です」

特別寄稿・和田稔夫(わだ・としお)「週刊Gallop」記者。1974年生まれ。大学4年の時にトラックマンを夢見て「競馬エイト」編集部でアルバイトを開始。その後「サンスポ」レース部を経て「週刊Gallop」記者に(現在は本誌予想を担当)。現場一筋で01年頃から藤沢和雄厩舎番を務めた。

*競馬・藤沢和雄の「革命伝説」35年(3)につづく

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