戦国武将「墓と菩提寺」の謎を解く【1】織田信長「祟りの首」は17カ所に埋葬された!?

 織田信長の骨の行方は? 明智光秀は生き延びて天海僧正となった? 徳川家康は大権現に? 伝説と謎に彩られた戦国武将たちの墓ミステリーに迫る。

「織田信長の墓は、全国に17カ所あると言われます」

 そう語るのは、歴史家の河合敦氏。本能寺の変で自刃して死んだ信長の遺体は、明智軍が懸命に探しても発見できなかった。信長の首のありかは本能寺の変の謎の一つだが、その墓がいくつもあるというのは、どういうことだろう。

 現在、信長の墓所であることを主張している京都の阿弥陀寺の言い伝えによれば、清玉上人という僧侶が自害した信長の遺体を荼毘に付してひそかに本能寺から持ち出し、阿弥陀寺に墓を建てたのだという。しかし、阿弥陀寺の墓は原則非公開で、遺灰や骨の存在は定かではない。

 戦国武将や歴史人物の歌を作詞して歌う歴史タレントの小栗さくら氏は、

「信長の死後、秀吉が信長の供養の大イベントを大徳寺総見院で行います。それを手伝ってほしいと阿弥陀寺の清玉上人は頼まれますが、秀吉に利用されるのを嫌って、自分は自分で信長の法要を行っています。もともとお母さんが産気づいた時に織田家に世話になって以来、関係が深かったことから、本能寺の変が起こったと聞くやすぐに駆け付けたと言われていますね。遺骸を持ち帰れたかはわかりませんが、阿弥陀寺には遺灰や形見などなんらかのモノが墓にあるのではないかと、その辺の物語ごと興味を引かれますね」

 信長の菩提所は、現在は寺町に移転した本能寺の「信長公御廟」があり一般に公開されているほか、秀吉が信長の葬儀のために創建した大徳寺総見院は、春などに期間限定で参拝可能。大雲院(東山区)は、非公開なので参拝はできない。

 信長に限らず、戦国武将たちの墓所は、1つではない。それはなぜなのだろう。宗教学者の島田裕巳氏に聞くと、

「当時は土葬なので、墓石の下に遺骨はないのです。土葬した後、石塔を別のところに建てるのが普通でした。だから供養したいと思う人がいればいくらでも墓はできるのです。お骨などを祀るというのはわりと最近のことで、首塚などは供養の墓というよりも、祟りを鎮めるという意味が強いと思われます。将門の首塚や菅原道真を天神として神に祀り上げたりしていますが、これは無念の死を遂げた怨霊を鎮めるために行ったことで、一般の武将の首をお墓に収めるということはなかったのではないでしょうか」

 光秀が信長の首を必死に探したのは、実は祟りが怖かったからなのかもしれない。

「当時、お墓は遺体を葬るということよりも、むしろ故人を顕彰するという意味合いが強かった。追善供養のため、子孫らが墓や五輪塔を建てたので、武将の墓は各地に点在することになったと思われます」(島田氏)

 明智光秀は山崎の戦いからの敗走中、京都の小栗栖で農民兵に竹槍で突かれ、家臣に介錯させ絶命。首を知恩院に届けるようにと遺言するものの、途中で夜が明け、その場に埋めたとも言われる。現在の東山区白川梅宮に光秀の首塚とされる供養塔が伝わっているが、光秀の首塚はこの他にも亀岡や宮津などにもあり、死とその後については諸説ある。光秀は山崎の合戦で死んでおらず、ひそかに落ち延びて、後に天海僧正となって家康を助けたという伝説や、光秀の郷里とも言われる美濃(岐阜県)・山県で名前を変えて生き延びた、とも。そこに伝わる「桔梗塚」は、光秀の墓とも言われる。

■豊臣秀吉「八幡神になりたい」願望はかなえられず

 豊臣秀吉の阿弥陀ヶ峰の豊国神社は、家康の天下になって社領を没収され、その後、明治になってから再建されるまで、荒れるに任されていたという。

「秀吉は生きている人間で、初めて神になろうとした人物。自分を八幡神=武力の神として祀るように遺言しています。ところが吉田兼見という吉田神社の神主が、八幡神は仏教と関係の深い八幡大菩薩だから大明神にすべきと朝廷に主張、豊国神社に祀られることになったのです」(河合氏)

 阿弥陀ヶ峰の山上に壮麗な御霊屋(みたまや)があり、秀吉の七回忌には大勢の民衆が集まったことで、家康は豊臣家をこのままにしておけないと、唐門を竹生島(ちくぶしま)に移設。豊臣家を滅ぼした後には全部取り壊そうとするものの、正室のねねが、そのまま朽ち果てるに任せておいてくれと嘆願したという。それが明治になって明治天皇が行幸した際に、豊国神社を再興するように命じ、明治30年には高さ10メートルもある巨大な供養塔が建てられた、と言われる。島田氏が解説する。

「秀吉は『大明神』、徳川家康は『大権現』として祀られましたが、『権現』というのは、仮に現れたという意味。仏が神として仮に現れるという神仏習合の考え方です。面白いのは『社参』ということが行われて、大名行列と同じように、日光東照宮に徳川歴代の将軍がお参りに行きます。これが現代につながるお墓参りの元祖と言えるかもしれません」

 家康を神として祀るのは、ご存じ日光東照宮。河合氏は、

「明らかに秀吉のやり方を真似たと思います。ただ、どんな神になるか遺言しなかったので、死後、議論になった。秀吉と同じ大明神にという意見もあったようですが、豊臣家は大明神で滅んだので、最終的には天海僧正が主張した東照大権現として祀ることになったと言われています。家康は『遺体は久能山に、葬儀は増上寺で行い、その後、日光に小堂を建てよ』と遺言。2代秀忠はそこそこ立派なものを建てましたが、3代家光はとにかくお祖父ちゃん大好きなので、壮麗な陽明門をはじめ、巨費を投じて東照宮を建設します。家光は生涯に10回、日光に社参。その後、日光社参は、徳川将軍の権威を示すパレードとなり、例えば、10代家治の社参では、行列の先頭が日光に着いた時、最後尾はまだ江戸にあったとも伝わります」

島田裕巳(しまだ・ひろみ):53年、東京生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。日本女子大学教授などを歴任後、現在は作家、宗教学者。著書に、「創価学会」「日本の10大新宗教」「葬式は、要らない」などがある。

小栗さくら(おぐり・さくら):博物館学芸員資格を持つ歴史タレント。テレビ番組、講演などマルチに活動中。昨年12月「小説現代」に歴史短編小説を発表、22年春頃、歴史小説短編集発売予定。

河合敦(かわい・あつし):65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「関所で読み解く日本史」(KAWADE夢新書)。

*戦国武将「墓と菩提寺」の謎を解く【2】につづく

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