戦国武将の末裔は今《織田信長》子孫がジャーナリストに!?織田信成は本物?

 織田という名前を聞けば、誰もが思い浮かべるのが織田信長である。

 織田家の源流には諸説あり、一説には平家の血を引くともいわれる。だが、当時の武家の多くが源氏か平家かを出自と主張しているので、信憑性はそれほど高くない。織田家は室町時代に信長の祖父・信定、父・信秀の時代に勢力を拡大。下克上を遂げて、戦国大名として台頭していく。

 そしてついに信長の代となり、長らく織田家と対立関係にあった今川家を桶狭間の戦いで攻め落とすと、一気に天下統一へと足を踏み出す。しかし、1582年、本能寺にいたところを明智光秀の軍に急襲され、燃え盛る炎のなかで自害を果たす。だが。この「本能寺の変」で、信長の遺体は発見されなかったという。

 歴史の授業に登場するのも、歴史ドラマなどで描かれるのも、信長一代の話である。それでは信長の死後、織田家の子孫はどうなっていったのだろうか。

「本能寺の変」の直後、嫡男・信忠は二条城で討たれる。織田家の「本家」は信忠の嫡男である秀信が継ぐことになるが、1600年の関ヶ原の戦いで、反徳川勢力の西軍につき、合戦で敗れた後、徳川家康によって織田本家は取り潰される。秀信はその後、自害。

 嫡男の血統はここに途絶えたが、信長の次男である信雄・七男信高・九男信貞の子孫は江戸時代も大名として存続する。

 次男信雄は豊臣家に仕えたが、1614年の「大坂冬の陣」直前に徳川側に寝返り、徳川家に優遇される。一説には豊臣家の家臣であった時期から、「徳川家のスパイ」をしていたとも言われている。この血統は明治維新まで大名家(旧柏原藩織田家)として存続して明治を迎え、直系の子孫である織田孝一氏はフリージャーナリストとして活動。「信長の子孫」としてたびたびメディアに取り上げられている。

 信長の七男信高の血統も江戸幕府の旗本として取り立てられ、明治時代も存続した。フィギュアスケート選手として活躍し、現在は多方面で活躍する織田信成は、織田信長から数えて「17代目の末裔」という触れ込みで知られているが、公表された家系図には10代目から12代目までが抜けており、正式には織田信長の末裔とは認められていない。

(オフィスキング)

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