関ヶ原の戦いで、東西どちらの側に加勢したかで、武将たちの運命は大きく変わった。追放になった武将たちの老後はいかに。
真田信之と信繁(幸村)の父親の真田昌幸は、関ヶ原の後、高野山の九度山(くどやま)へ追放される。小栗さくら氏は、戦国武将の中でもこの真田昌幸に魅力を感じている。
「昌幸は、上田合戦では2度にわたって徳川軍を退けた名将です。関ヶ原の戦いでは、次男・信繁を西軍に、嫡男の信之を東軍につかせて、どっちが勝っても真田家を残せるようにしましたが、関ヶ原の西軍側として、信繁と一緒に紀州の九度山に配流になってしまいます。九度山での暮らしは、与えられた屋敷の一定の範囲内なら自由に動けて、狩りや釣りもできたのんびりとしたものでしたが、お金がなかった。上田に残った長男の信之らには、たびたび金子(きんす)を送ってほしいという手紙を出しています」
怒濤の手紙攻撃については河合敦氏も続けて、
「信之からの仕送りは、そんなに多くはなくて、家計はずっと苦しかったようです。息子の信之に『40両送れと言ったのにまだ20両しか届いてないぞー』、さらに『20両が無理ならせめて5両でもいいから』といった手紙を再三出しています。九度山に流されて、11年の配流生活の後、ついに65歳で亡くなった時のこと。息子の信之は家康の側近に、弔いをどうすればいいかと尋ねますが、『貴殿のお父上ははばかりがある人ゆえ』と言われ、葬儀の記録もなく、幕府に忖度した寂しい死に様でした」
関ヶ原で負けて、逃亡生活の果てに八丈島への流刑者第1号となったのが豊臣五大老の宇喜多秀家。南の島でのんびりと……と思いきや、どうもそうではなかったようだ。
本来なら死罪になるところだが、正室の豪姫の実家である前田家などの助命嘆願で死罪を免れた。
「八丈島での生活は豪姫の実家の前田家から1年ごとに米70俵が送られてきましたが、困窮生活でした。ある時、江戸から出向いた代官に食事に招かれ、3杯目のごはんは家族に食べさせたいからと、おにぎりにして持ち帰ったとか。八丈島に漂着した船にいた福島正則の家臣に酒を恵んでもらったなど、ミジメな貧乏暮らしが伝えられています」(河合氏)
食料乞いの宇喜多秀家と豪姫をテーマとした楽曲を作詞している小栗氏は、
「2人の絆が保たれたのは、豪姫の秀家に対する思いが深かったからでしょうね。金沢にある豪姫の供養塔の隣には秀家の供養塔も建てられていて、八丈島には秀家と豪姫の石像も建っています。また豪姫死後、姫の思いを乗せるため、家臣が『大悲船』という、船形の厨子の鍵を作ったほど、絆は後の世に伝わりました」
宇喜多秀家よりも、もっと遠く海外追放になったのは、キリシタン大名の高山右近。秀吉時代にバテレン追放令が出され、大名のキリスト教入信が禁じられても信仰を捨てなかったため、右近は領地を没収されることに。その後、家康が出したキリスト教禁止令で国外退去処分。右近は海路で長崎を経て、フィリピン・ルソン島のマニラへと追放された。マニラではスペイン人のルソン総督はじめ多くの市民に盛大な歓迎を受けるが、高齢での船旅もあって40日後に熱病にかかり、そのまま亡くなってしまう。
現地ではカトリック教会の大規模な葬式が行われ、高山右近が埋葬された場所には現在、銅像が建てられている。マニラでの老後は、短いながらも、信仰に生きた右近にとっては満足なものだったに違いない。
武田信虎は、息子の武田信玄に国を追放されたダメオヤジというイメージだが、信玄に帰還を拒まれて、娘婿の今川義元の世話に。今川家中では厚待遇で悠々自適な日々を送り、その後、義元が信長に討たれたあとは、今川家から出て京都へ。文化的な暮らしを送っている。信玄が死んだあとには武田領に戻って武田勝頼とも対面し、81歳の生涯を閉じることに。
追放されても武田家からは相当な隠居料が支払われていたともいわれ、さすがは「腐っても武田家」といったところか。
小栗さくら(おぐり・さくら)博物館学芸員資格を持つ歴史タレント。大河ドラマの公式イベントほか、歴史テーマの音楽ユニット「さくらゆき」、小説、作詞、講演などマルチに活動中。
桐畑トール(きりはた・とーる)72年、滋賀県生まれ。「ほたるゲンジ」を結成。戦国マニア芸人による戦国ライブなどを行う。「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)のリポーターとして出演中。
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。近著:「最新の日本史」(青春新書インテリジェンス)。