生死の狭間を生きざるをえなかった戦国時代にもかかわらず、人もうらやむ長寿を誇った武将がいた。そのノウハウと生き様は、現代の終活につながる知恵に満ちている。
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、羽柴秀吉の追討を逃れて生き延び、江戸時代になって家康の下で天海僧正(てんかいそうじょう)として復活したという伝説がある。
歴史家の河合敦氏によれば、
「江戸時代の中期頃の『翁草』という随筆に、光秀は生きていたという記述がありますが、天海=光秀説は、ありえない。でも天海が100歳を超えて長生きしたのは確かなようです」
一方、天海=光秀説を信じるという戦国大好き芸人の桐畑トール氏は、
「天海和尚は長生きの秘訣を、2代秀忠、3代家光に向けて『長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼(だらに) 時折りご下風遊ばさるべし』と教えた。まずは粗食、質素な食事をして毎日風呂に入る(日湯)、お経を読む(陀羅尼)、最後にたまに屁をこけ(下風)なんてことを言っているんです(笑)。溜め込むのはよくないからってことで、家康が健康オタクになったのも天海の影響なんでしょうね」
ちなみに、家康に贈ったと伝わる天海養生訓は以下のごとくだった。
「気は長く 勤めは堅く 色うすく 食細くして こころ広かれ」(気は長くもって、仕事は堅実に、欲望(色)は薄く、小食、粗食で、心は広くもて)。現代にも通じる普遍の真理というべきか。
死ぬ直前まで現役で、気概をもって老境を生きたという意味では、島津義弘(しまづよしひろ)が一番と語るのは、戦国武将のイメージソングを作詞し、歴史イベントや講演会に出演している「歴女」の小栗さくら氏だ。
「(島津義弘は)85歳まで生きて、関ヶ原の戦いの時点で、すでに66歳でした。関ヶ原の『島津の敵中突破』が有名ですが、その前に九州の桶狭間といわれる木崎原の戦い(1572年)では、10倍もの兵力差を跳ね返しています。戦いの後には、敵味方双方の戦死者の供養をしたり、人間としても懐の深さがあった。隠居したあと、最晩年には食も細くなって臥せっていましたが、家臣たちが『殿! 戦ですぞー』って鬨(とき)の声を挙げると、ガバッと起きてモリモリごはんを食べる。死ぬ直前まで戦が仕事という気持ちがみなぎっていました。その一方で家臣の子供を抱いて可愛がったり、奥さんに『あなたのことが心配だ』とか、『夜も眠れない』とラブレターを出す優しい側面もあった。人とのつながりを大事にし、長生きした人物でした」
とはいえ、長生きがいいのか悪いのか、微妙なのが真田信之(さなだのぶゆき)のケースだ。
大坂冬の陣で真田丸という出城を築いて奮戦した真田信繁(幸村)の兄。父親の昌幸、弟の信繁とは関ヶ原で敵味方に分かれ、徳川に従った信之は、信濃・松代13万石の大名になる。
河合氏は言う。
「信之は93歳までの長寿を生きていますが、死ぬ2年前の91歳頃まで跡目争いがあったりして、なかなか楽隠居することもできなかったのです」
長生きしたことで、辛い人生を味わうことになったのは皮肉というほかない。
小栗さくら(おぐり・さくら)博物館学芸員資格を持つ歴史タレント。大河ドラマの公式イベントほか、歴史テーマの音楽ユニット「さくらゆき」、小説、作詞、講演などマルチに活動中。
桐畑トール(きりはた・とーる)72年、滋賀県生まれ。「ほたるゲンジ」を結成。戦国マニア芸人による戦国ライブなどを行う。「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)のリポーターとして出演中。
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。近著:「最新の日本史」(青春新書インテリジェンス)。