戦国武将の「老後と終活」を暴く〈老いの哲学1〉今川氏真は親の仇・信長を「蹴鞠」接待

 死を厭い、節操なく、プライドも名誉も捨てて生き延びることを選んだ武将たちがいる。それもまた正解といえよう。

 父親の今川義元が桶狭間で織田信長に敗れて死んだあと、その息子の今川氏真(いまがわうじざね)は77歳まで生きていた。河合敦氏が解説する。

「義元の死後、武田信虎と同様に京都に行って、公家の間を回って歌を詠んだり、蹴鞠(けまり)を教えてお金をもらったりしています。驚くのは、親の仇である信長の前で蹴鞠の技を披露したと伝わることです」

 よもや自分の父親を殺した相手を接待とは……。プライドはないのかと思わざるをえないが、生きるためには是非もないというべきか。

「足利幕府最後の将軍・足利義昭は信長に京都から追放され、毛利氏を頼って広島の鞆(とも)の浦に行きます。その地で征夷大将軍として、各地の武将たちに手紙で命令を発して活動を続けています。晩年は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として、話し相手になって61歳で亡くなっています」(河合氏)

 信長の弟の一人である織田有楽斎(おだうらくさい)は本能寺の変で信長が討たれた時、二条御所で、信長の長男・信忠には切腹を勧めながら、自分は逃げて生き延びている。

 信長の死後、秀吉のお茶の先生として御伽衆になり、その後、妹であるお市の子である淀殿と秀頼とは、親戚ということもあり、大坂城にとどまった。だが、夏の陣の前には京都に逃げ、有楽流という流派を開いて茶人として生きていくことに。

「兄貴があれだけ優秀だと、武将としての野心や能力もかなわないと諦めて、戦国の真っ只中にあって自分の好きなお茶一本で生きると決めたという意味では、うらやましい老後だとは思います」

 こう語る桐畑トール氏は返す刀で、

「その反対に黒田官兵衛は、あれだけ秀吉に尽くしたのに、優秀すぎて秀吉に遠ざけられ、九州に隠居することに。関ヶ原の時には、ワンチャンありで、九州で挙兵しながら、関ヶ原の戦いが早くに勝敗がついてそれもダメになった。ツイてない。才能があっただけに残念な老後ですね」

 さらに織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)は、秀吉に転封を命ぜられるも、これを拒否。領地をすべて没収され、後に秀吉のところで、これまた御伽衆となっている。

 実は、御伽衆を最も多く抱えたのが秀吉だ。再雇用の最大の受け皿=御伽衆かと言いたいぐらいで、耳学問への秀吉の欲求の強さも窺える。

 大坂冬の陣では大坂城にいて、直前に京都に逃げ、嵯峨の龍安寺に引き籠もる。その後、3代将軍・家光の茶会に参加したり、京都で悠々自適の生活を送って73歳で没した。

 野心を捨て、分をわきまえた人物として、河合氏は中国地方の覇者・毛利元就の名を挙げる。

「毛利元就も75歳と長命ですが、心配性で、安芸国(あきのくに)を守るには隣の国を抑える必要があるということをやっているうちに、なんとなく10カ国を支配した。もともと天下統一などの野心はなかった人物です。次男の吉川元春や三男の小早川隆景らには、『天下を狙うな』と遺言したといいます」

 高望みしないのも、生き延びて、老後を全うする秘訣なのかも。

小栗さくら(おぐり・さくら)博物館学芸員資格を持つ歴史タレント。大河ドラマの公式イベントほか、歴史テーマの音楽ユニット「さくらゆき」、小説、作詞、講演などマルチに活動中。

桐畑トール(きりはた・とーる)72年、滋賀県生まれ。「ほたるゲンジ」を結成。戦国マニア芸人による戦国ライブなどを行う。「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)のリポーターとして出演中。

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。近著:「最新の日本史」(青春新書インテリジェンス)。

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