いまなお絶大な人気を誇る戦国武将、武田信玄。信玄亡き後、武田家はどのような行く末を辿ったのだろうか。
武田信玄を排出した武田家の源流は清和源氏(せいわげんじ)だと言われている。力を得たのは信玄の父にあたる18代目当主・信虎の治世である。信虎は武力にものを言わせて、甲斐統一を果たすが、その強引な手法に対して反発が起こり、家臣のクーデターによって追放の憂き目にあう。そのクーデターの旗印となったのが信虎の嫡男である信玄であった。
信玄は人心を掌握する内政でしっかりと足下を固め、さらに軍神とも称される戦の才を発揮。当時最強といわれた武田軍の軍力は積極的に領土を拡大して勢力を広げる。上杉謙信との戦い、今川家への侵攻などを経てその領土は120万石に達した。その後、信長と対立して、信長の盟友・家康を攻めるが、その半ばにして病死する。
信玄の後を継いだのは四男・勝頼であった。上に3人の兄がいたが長兄は謀反の嫌疑で幽閉、次兄は大きな病を抱え、三兄は夭折している。信玄の意向を継いだ勝頼は織田・徳川軍を攻めるが、1575年の「長篠の戦い」にて大敗を喫し、これが武田家の命運をわけることとなった。名将と呼ばれる多くの家臣を失ったことで、急速に勢力を弱めていくこととなる。
1582年、織田・徳川軍による「甲州征伐」により武田領は陥落し、勝頼は正室、嫡男・信勝とともに自害。ここに約450年続く名家・甲斐武田家は滅亡する。
だがその後、織田軍による武田家残党狩りを逃れて、武田家の血脈は続く。勝頼の娘・貞姫は足利公家・宮原義久の正室となっていた。その一方で、信玄の二男・信親は出家する前に、信玄の直系となる子を残していた。それが信道である。その子孫は長い時を経て江戸幕府幕臣となり、その血統は現在まで続いている。
1914年の大正天皇の即位式典に際して、信玄の正当な末裔と承認されたのがこの二男・信親の血統である高家・武田氏であった。ある雑誌の記事によれば、その16代当主は日本の高度経済成長を商社マンとして支え、その息子は山梨県の甲府市役所に就職したという。
その他、信玄五男・盛信の子孫、また上杉家の家臣となった信玄七男・信清の子孫などの血統も現在まで続いている。
2014年に「武田信玄18代末裔」を名乗るファッションモデルが現れるが、その後、万引き容疑で逮捕される。武田信玄の末裔者の会「武田家旧温会」は「甲斐武田家正統家出身の方にそのような方はいらっしゃいません」とのコメントを発表した。
(オフィスキング)