「野球拳おどり」商標登録の裏にあった”萩本欽一との歴史的和解”とは

「野球~す~るなら~」の掛け声で始まり、「アウト!セーフ!よよいのよい」でジャンケン。負けたほうが1枚ずつ服を脱いでいくお座敷芸として、70~80年代に一世を風靡した「野球拳」。その元祖となる松山市発祥の「野球拳おどり」が9月6日、特許庁によって商標登録された、と各メディアが伝えた。

 野球拳は1924年に愛媛県松山市で生まれた郷土芸能で、伊予鉄道(当時は伊予鉄道電気と呼ばれた)の野球部が試合後、相手チームと夜の懇親会を開き、その席で川柳作家だった当時のマネジャーが即興で歌と振り付けを考え、部員全員で踊ったことが始まりだとされる。

「その後、野球拳は伊予鉄野球部の宴会芸として定番となり、地元松山や遠征先で披露すると、行く先々で大ウケした。で、各地に広まる中で、ジャンケンに負けると酒を飲まされたり、服を脱いだりといった罰ゲームが科されるようになったようです」(情報誌記者)

 そんな「野球拳を」を全国に知らしめたのが、萩本欽一と坂上二郎が司会を務めた人気番組『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』(日本テレビ系で1969~1970年にかけて放送)だったという。

「この番組は最高視聴率33.8%というお化け番組で、そのワンコーナーとして人気だったのが『野球拳』。ルールは簡単。女性ゲストがMCのどちらかとジャンケンで対戦、負けたら衣装を1枚づつ脱いでいくというもので、女性の衣装はその場でオークションに掛けられ、観客が競り落とした。コンプライアンスが厳しい現代では考えられないことですが、当時は日本各地の公会堂を回り、この内容で収録していたんですからね。それくらい、のどかな時代だったということです」(前出・記者)

 ところが、たしかに「宴会芸」ではあるものの、ジャンケンで負けると服を脱ぐというイメージが定着してしまったことに、拒否反応を示す松山市民も少なくなかった。そこで、当時の関係者が日本テレビに抗議。だが、聞き入れてもらえなかったというエピソードもある。

 その後、「野球拳おどり」はアレンジが施され、1970年夏には「松山まつり」にも登場。多くの連が出て演舞を繰り広げるイベントとなったという。

「それでも『松山 = 野球拳 = 負けたら服を脱ぐ』というイメージを嫌う人も多く、ロック調やサンバ調にアレンジしても、今ひとつ盛り上がらない時期もありました。そんな時、『野球拳 = 服を脱ぐ』というイメージを植え付けた張本人である萩本さんが野球チーム『茨城ゴールデンゴールズ』を連れて、春祭りに参加してくれたことがあったんです。2005年のことですが、萩本さんは『野球拳おどり』に飛び入りで参加した後『本当の野球拳を知らなかった。(野球拳の)先輩に申し訳ないことをした』と謝罪してくれ、結果『歴史的和解が成立した!』というわけです」(前出・記者)

 今回の特許庁による商標登録で、関係者は「野球拳おどりが松山発祥の郷土芸能であるという法的根拠ができた。より普及しやすくなるのでは」とコメントしているが、やはり、欽ちゃんとの歴史的和解は大きかった!?

(灯倫太郎)

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