《消えた甲子園スターは今》「史上最高の二塁手」が卒業後に味わった“挫折”

 甲子園で類いまれなる活躍をみせながらも、その後、プロ野球界に進むことなく、さらには野球の表舞台自体から消えてしまう選手たちがいる。今回はその中から、かつて「甲子園史上最高の二塁手」といわれながら、その後、野球界から消えてしまった選手を紹介しよう。2007年、2008年の甲子園で活躍した静岡県、常葉学園菊川高校(現・常葉大学附属菊川高校)、町田友潤選手である。

 2年生で迎えた2007年の春の甲子園から、4季甲子園出場。ポジションはセカンド。2008年夏には決勝戦まで勝ち上った。決勝戦で大阪桐蔭に破れるも、全大会を通じて、高校生離れをした守備テクニックで注目された。

 ランダムにバウンドする難しい打球も涼やかにも見える落ち着きぶりで的確に捕球。刺すような鋭い打球にも瞬時に飛びついたかと思えば、捕球しながら瞬時に状況を判断し、体勢を崩しながらも正確なスローイング。数多くのダブルプレーも含んだその守備で、敵の好打を封じた。その高度なプレーは、ヤクルトの宮本慎也コーチをして「プロでもなかなかいない」、実況解説者をして「(町田の守る)セカンドに打ってしまえば、望みはありません」と言わしめるほどであった。

 未来を嘱望されながら、早稲田大学へ進学して野球部に入った町田。しかし、そこで大きな挫折が待ち構えていた。野球に対する葛藤から1年足らずで退学することとなってしまったのである。

 当時の状況を知るスポーツ関係者によれば、「世間ではイジメがあったのではなどといったことも言われていますが、そのようなことはなかったようです。一言で言えば自分に厳しすぎる性格が災いしたと言えるでしょう。一歩広い世界に出たときに、現在の自分と周りの世界との距離を感じ過ぎてしまったというか……。大学野球の木製バットへの対応が上手くいかなかったことも挫折につながったようです」とのことである。

 その後、高校時代のチームメイトが所属していた社会人野球チーム、ヤマハ野球部に所属する。しかし高校時代から抱えていた腰の痛みが悪化して、かつてのパフォーマンスを取り戻せぬままに4年で退部した。

「腰痛にくわえて、かつてよりコンプレックスとなっていた肩の弱さを意識して、それが引退へと繋がったようです」(前出・スポーツ関係者)

 その後、町田は心機一転、障害児向けの養育施設を開く。

「福祉方面に進むきっかけとなったのは、高校時代、障害を持つ子供とその母親にかけられた『野球をする姿が励みになっている』との言葉がずっと胸に残っていたからだといいます」(前出・スポーツ関係者)

 現在は福祉施設を経営する傍ら、暇を見ては母校で後輩の野球部員に指導する生活を送っているという。

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