たとえ毒ガスを噴射しても常にユーモアを忘れなかったノムさんを送るには、湿っぽいだけではいただけない。故人を偲ぶ関係者からは、次々に「人間・野村克也」のさまざまなエピソードが寄せられた。
「現役時代の野村氏のオーラには圧倒された」と語るのは、野村監督が率いるヤクルト、阪神、楽天でヘッドや2軍監督などを務めた参謀・松井優典氏だ。
「練習法が独特でね。息を止めてバットを地面と平行に持ち、腰をうまく回してスイングする通称『地獄振り』。私もやってみましたが、難しくて10回も振れないんです。それを南海の兼任コーチだった野村さんは50回ぐらいビュンビュン振る。他にも砂を詰めた一升瓶を持って上下させて手首を鍛えていた。ダンベルなどのウエイト器具もなかった時代です。一流選手のトレーニングを目の当たりにさせてもらいました」
野村氏の代名詞は頭を使う「ID野球」だが、そうした肉体作りもまた大選手・野村克也を作り上げたと、江本孟紀氏も証言する。
「あれだけの記録を残せたのは野村さんの強靱な肉体があってのこと。これは私が南海に入る前の話ですが、野村さんが本塁にスライディングした走者をブロックした時、スパイクの刃が当たって頭がザックリ切れてしまったそうなんです。もう血がダラダラ出て、すぐに病院直行。でも次の日には、ケロッとまた試合に出場した。傷口はもう塞がっていたそうですよ。『あいつのあだ名はムースからカメレオンに変えよう。シッポ切ってもピンピンしてるからな』なんてチームメイトが言ってたそうです」
また江本氏は意外な事実にも言及する。今日では一般的になった投手の「クイックモーション」は、野村氏が南海在籍当時に、時の盗塁王・福本豊氏の盗塁に対抗するため作り上げた、というのが定説。しかし実のところ、若干ニュアンスが異なるのだという。
「兼任でコーチや監督をやっていた選手晩年の野村さんは、打撃は4番でタイトル争いもしていたけど、肩は少し衰えが出始めていたんです。それをカバーするために、ピッチャー、内野陣、コーチ、そして野村さんが一丸になって何度も練習して、クイックやピックオフ(リードする走者をアウトにするための連係プレー)を完成させていきました」
南海はこの頃、ほかにもバッターやバッテリーの癖、データを駆使する野球を試みていた、と語る江本氏。当時「シンキングベースボール」と呼ばれたそれが、野村ID野球、ひいては現代プロ野球の源流につながっていたと言えるだろう。
「知将」とたたえられる野村氏の采配でも特に記憶に残るのが、阪神監督時代に左右のワンポイントリリーフを交互に繰り出した継投策「遠山・葛西スペシャル」だ。昨年11月に大阪・浪速高校野球部監督に就任した遠山奬志氏に当時の心境を聞くと、こんな答えが─。
「打者との相性を考えての起用でしたが、本当はきっちり1イニングを抑えたい、と思っていました。それは葛西も同じです」
しかし本人の悔しさとは裏腹に、野村氏の助言でフォームを改善し、9年間の未勝利から復活を遂げた遠山氏と葛西稔氏のコンビは勝負どころの試合終盤、相手打線をキリキリ舞いさせた。結果、球界の主砲で当時の常勝巨人の4番打者・松井秀喜氏に対しても、13打数ノーヒットという圧倒的な成績を残したのだ。
「当時の阪神のような弱いチームが勝つためには、さまざまな戦法が必要でした。ワンパターンにならないよう、攻め、守りのバリエーションは豊富でした。チーム全員が真剣にミーティングに参加し、作戦を周知させていましたね。逆に野村監督のボヤキは、対マスコミのパフォーマンスだと割り切っていちいち聞いていませんでした(笑)」(遠山氏)
昨年、テレビ番組の企画で「平成のベストナイン」を選出した野村氏は、中継ぎ部門で遠山氏の名を挙げ、
「投手向きの性格。何がいいって、度胸がいい」
と語っている。采配の裏には当事者のさまざまな思惑があったが、野村氏がプロ野球の魅力の一面を演出したこともまた事実なのだ。