昭和のプロ野球史をひもとくたびにスポットライトを浴びてきたのはいつもONだった。人気で勝てなくとも実力で存在感を示したのが野村氏だったが、世間の関心は巨人の2人ばかり。そんな陰ひなたの奇妙な交差を振り返りたい。
野村氏を語るうえで切っても切り離せないのが、王貞治氏(79)と長嶋茂雄氏(83)との関係性である。
「王・長嶋はヒマワリ。俺はひっそりと咲く月見草だ」と、華々しいONと光の当たらない自身を比喩した語りぐさは有名だが、プロ入りに至るまでの経歴にも天と地ほどの差があった。スポーツ紙ベテラン記者が語る。
「長嶋さんは六大学でホームランの記録を作ったスター選手。王さんも甲子園の優勝投手だった。アマチュア時代の実績から三顧の礼でプロ入りした2人と違って、ノムさんは京都の無名校からテスト入団で南海ホークスの門を叩いた」
もちろん、テスト生なので契約金は0円。選手として活躍を期待されていたわけではなく、当時、「カベ」と呼ばれていたブルペン捕手としての採用だった。
その後、血のにじむような努力のかいあって、3年目に正捕手に抜擢されると打撃センスが開花。61年~68年には8年連続で本塁打王を獲得。62年には小鶴誠が持つシーズン51本の本塁打日本記録を12年ぶりに更新する52本を打った。だが、その大記録も泡沫のごとく消えてしまう。
「翌年に、王さんが55本のホームランを打って記録を塗り替えてしまった。ノムさんも『かわいげのないヤツだ。俺が何年かけて日本記録を出したと思っているんだ』なんて本気で怒っていたよ」(ベテラン記者)
あっさりと本塁打記録を抜かれたことに発奮して、65年には戦後初の三冠王を獲得する。残念ながら、ここでも「世界の王」が記録をかぶせてきた。
「王さんは73年と74年に2年連続で三冠王になった。またしても自分の記録がかすむことになったノムさんは『いつもアイツが俺の記録の邪魔をするな』なんてこぼしていた」(ベテラン記者)
チクリと刺すことは忘れないが、野球人としては王氏の打撃技術をリスペクトしていたという。
「92年の春季キャンプで当時、NHK解説者でヤクルトの視察に来ていた王さんに監督のノムさんから『おぅ、ちょっと広澤を見てくれ。こいつは三冠王を獲れるかもしれん』と打撃指導をお願いする一幕がありました。その後、バット談議に突入。お互いに長距離打者ながら、グリップを余らせる認識が一致したようです。グリップいっぱいにバットを構える広澤を見て『お前、なんでバットを長く持つんや』と2人して詰め寄っていましたよ(笑)」(球界関係者)
追いつき追い越せで実力を認め合いながら大記録を築いてきた、2人だからこその理論なのだろう。