野村克也・月見草84年の真実(1)“寂しさ”が滲み出ていた「最期の言葉」

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」など、核心をついた球界屈指の「核言家」だった野村氏。随所に遺した「最期の言葉」も趣に満ちていた。

 入浴中の急死という突然の訃報で、球界のざわめきはいまだ収まらない。

 だが亡くなる直前まで、仕事に対して意欲的だったと語るのは、あるNPB関係者だ。

「ノムさんが専属解説を務めるサンケイスポーツの幹部と2月初頭に話したら、話題の中心はノムさんのシーズン予想や紙面解説などについてで、本人もやる気だったとか。亡くなった直後には『もうビックリですよ。社内がパニック状態です』と言っていた。TBS系『S☆1』などのお抱えメディアも同様です」

 関係者が口をそろえるのは「あまりに急だった」ということだ。野村監督のもと、90 年、91年に2年連続ヤクルト開幕投手を務めた内藤尚行氏もその一人。

「1月20日、ヤクルトのOB会に出席した時に会ったのが最後でした。『なんだお前、最近テレビに出てねえじゃん』と言われたんで『お願いしますよ?』って軽口で返してね。その時も、元気そうないい表情だったので、亡くなったと聞いて驚きましたよ」

 内藤氏は引退以降、「同業者でありライバル」(内藤氏)ということで、野村氏を「ノムさん」と呼び、タメ口で話すざっくばらんな関係だったが、昨年、長年疑問に思っていたことが氷解したとも語る。

「僕は開幕投手のことを、ノムさん本人じゃなくコーチから告げられたんです。僕としては、監督の口から『任せた』と言ってほしかった。だから去年、あるインタビュー企画で『あの時、言ってくれなかったじゃん』と尋ねてみたんです。そしたら『だってお前、バカだもん』と言われて。確かに当時、開幕前の調整がすごくうまくいったんです。僕の性格を見透かして、緊張しないで実力を発揮できる伝え方をしてくれたのかな、と思いましたね」

 実は小社でも、野村氏の著書を制作していた最中の悲報だった。

「南海時代にバッテリーを組んだ盟友・江本孟紀氏との対談本で、開幕前の3月に発売予定でした。実は亡くなる2日前にお二方からの原稿チェックも戻ってきており、進行は最終段階だった」(担当編集者)

 その江本氏は、昨年11月に行われた同書の対談収録が、野村氏と言葉を交わした最後になったという。

「何度か対談を重ねてきましたが、口癖のように『球場に行きたい、現場に行きたい』とおっしゃっていましたよ。野球一筋に生きてきた人だし、球場に行けば見知った顔が入れ代わり立ち代わりあいさつに来るからね。それが生きがいだったんじゃないですか。サッチーが亡くなって独り身になってからは、余計そうだったかもしれないね。ご自宅に弔問にうかがいましたが、ヤクルトのユニホームを着て安らかに眠られていました」

 野村ヤクルトで95年に投手コーチを務めた角盈男氏も、近年の野村氏に同様の印象を抱いた一人だ。

「80歳を超えてからは腰が曲がってきて、本人は『キャッチャーやってきた職業病だよ』なんて言ってましたが、去年末には忘年会にも出てもらいましたし、元気そうでした。いまだに亡くなったことが僕にはピンと来ませんが、確かに奥さんを亡くされてからは独りの家に帰るのが寂しかったのかもしれませんね。最近は講演会に一緒に出ることもありましたが、終わってからの食事会のほうが話が長いんですよ。2~3時間はしゃべりっぱなしで帰してくれませんでした」

 今ごろ天国では、最愛のサッチーと思う存分語らっているのだろうか。

スポーツ