野村克也・月見草84年の真実(3)墓場まで持って行った「ボヤキ」〈2〉

 先に触れたように、大変な愛妻家ではあったが、サッチー不在の場では夫人に対してボヤくことも。

「記者との雑談でノムさんは『尻に敷かれている』『サッチーと別れてーな』などと、よくボヤいていた。『俺、こんな生活捨てて、田舎に喫茶店でも開きたいな』と口にすることさえありました。財布のヒモを握られていることもこたえていたようで、『本書いても、講演しても、一銭も入ってこない。全部管理されているから浮気もできない』と話していた。だから、親しいラジオ局やテレビ局が突発的にインタビュー取材を頼んできた時には、『じかで、封筒でくれ』と頼んで、ギャラを取っ払いでもらっていました。それでもオフになれば、サッチーがブッキングした講演地獄。『サッチーは俺を殺す気か』が口癖でした」(元ヤクルト担当記者)

 楽天時代を語る時にはフロントに対する憤りを隠せなくなることもあった。初のAクラス入りを果たすも、CS前に契約を盾にクビ宣告された09年を思い出して講演会でバッサリ!

「南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督をやりましたけど、他の3球団に比べて人間の肌と肌の触れ合いとか義理人情が一切ない。はっきり申し上げまして、楽天の監督をやったことは後悔してます。やらなきゃよかった」

 さらに、楽天の監督に就任する際に、前任の田尾安志氏をおもんぱかる一幕もあったという。

「新規参入の寄せ集めチームを任され、1年で解任された田尾さんには全面的に同情していました。直接、三木谷オーナーに『あんたたちは田尾の人生をメチャクチャにしちゃったんだ』と苦言を呈したといいます。この時ばかりはオーナーも辟易して平謝りするしかなかったようです」(球界関係者)

 また、能力以上に処世術ばかりを重視する野球界を嘆くことも忘れない。宮本慎也氏がヤクルトのヘッドに就任した当時、アサ芸にこう吐露していたものだ。

「宮本は野球の理論がしっかりしているから期待しているけど、俺と一緒で処世術がまったくダメなんだ」

 この心配するあまりの色濃いボヤキは大的中。宮本氏はわずか2年でチームを去ることになる。

 最後に、野球人として大成する以前を振り返ってのボヤキをお伝えしよう。裕福ではなかった野村氏は、とにかく金持ちになりたかったことをかつての講演会でボソッとこう打ち明けていた。

「歌手になるために合唱部に入るも、生まれ持った声が低音すぎてアカンかった。続いて映画俳優を志すも、鏡に映る自分を見てあきらめた。もう少し早く渥美清や藤山寛美が出ていれば‥‥」

 後々、ヤクルト監督時代の93年にシングルCD「俺の花だよ月見草」で歌手デビューを果たしている。最後に選んだ野球が人生を変えたのである。

スポーツ