内戦が続くシリアで12月8日、反政府勢力が首都ダマスカスを制圧。アサド大統領は暗殺を逃れるためロシアに亡命し、これで50数年にわたるアサド政権が事実上崩壊した。
シリアでは反政府勢力組織の指導者らが国民に向かい「この勝利は歴史の新たな1ページで、地域にとっての転換点だ」と演説し、国外での避難生活を余儀なくされていたシリア人らにも帰国の動きが広がっている。
アサド大統領は29年にわたりシリアを支配してきた父ハフェズ・アサド前大統領の死去により2000年、大統領に就任。政権を握ることになったのだが、その強権的かつ残忍な統治手法がかねてから国際社会で批判の的となっていた。
反対派に対し大量殺戮を繰り返すなど、あまりにも残忍だった前大統領から息子に代わり、当初は抑圧的な政治構造に対する変化を国民も期待していた。しかし何のことはない、おとなしかったのは就任当初だけで、すぐに馬脚を現し反体制派をさらに暴力的に糾弾。結果、内戦を引き起こされることになったのだが、一説にはアサド政権により殺害された反体制派を中心とするシリア人は50万人以上。約600万人が難民となったとされている。
「シリア内戦の発端となったのは、反対派とされ逮捕されたダルア市出身の13歳になる少年の死です。少年は拘束され、警察の拷問を受けたあと拳銃で射殺されたのですが、あろうことか切り刻まれた遺体の写真がネットで拡散。これで大規模な反政府デモが巻き起こったのですが、それに怒り狂ったアサドはその後、自らの国民を5年以上にわたり殺害し続けたんですからね。狂気の沙汰としか言いようがない」(国際部記者)
ところが、そんな反体制派の抑え込みを全面的に支援したのが、ロシアとイランだった。ロシアは大規模な空軍力を提供、イランもレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラをシリアに戦闘員として大量に派遣した。結果、アサド政権は強化され、大統領自身が持つ父から伝承した残虐性と「俺に歯向かうとこうなる」という見せしめとで、無差別殺戮、拷問といったやりたい放題の戦争犯罪がエスカレートしたというわけだ。
「父親のハフェズ大統領が1982年、反対派が暮らす西部の都市ハマーを夜襲し、2万人を虐殺しただけでなく、道端に積み上げた遺体を三日三晩燃やし続けたことは有名な話。息子はそれを上回る残虐性で、民家に火を放ち炎に包まれて逃げ惑う市民を撮影。それをSNSで拡散して悦に入っていたとも伝えられる。同氏が『21世紀のモンスター』と呼ばれるのは、そんな所以からなんです」(同)
とはいえ、栄枯盛衰は世の習い。ウクライナ戦争とイスラエル問題で、シリアに手が回らなくなったロシアとイランが距離を置き始める。結果、アサド一族による約50年の支配は、ここに終焉を迎えることになったのである。
さて、アサド政権崩壊後のシリアの行方については諸説あるものの、周辺地域のパワーバランスが再構築される可能性は否定できない。一部報道では、今回の反政府勢力進撃の裏に同勢力を支援するトルコの賛同があったとも伝えられるが、反政府組織HTS側はこれを否定している。ともあれ、シリアがアサド政権崩壊に国民がわく中、中東のパワーバランスは、まだまだ暗中模索にあるようだ。
(灯倫太郎)