総理大臣・安倍晋三を生み出したのは、その華麗なる血脈だ。総理として大仕事を成し遂げた祖父、そして総理にあと一歩届かなかった父。歴代最長の在任日数を誇る、元総理が受け継いだDNAを遡った。〈作家・大下英治〉
安倍晋三の母親の洋子によれば、晋三は「政策は祖父の岸信介似、性格は父親の安倍晋太郎似」という。
岸信介は、明治二十九年十一月十三日、山口県山口市に生まれた。のちにやはり総理となる佐藤栄作は、岸の実弟である。
岸は、郷土の先輩である吉田松陰と門下生である高杉晋作たちへの熱い思いを抱いて青春期を送った。大正六年、東大法学部に入学。天皇主権説を唱える憲法学の大家で、国粋主義者の上杉慎吉博士主宰の木曜会に入る。上杉から大学に残って後継者になるよう勧められたが、大正九年、東大法学部卒業後、農商務省に入省し、工務局長をつとめた。「革新官僚」と呼ばれる。
二・二六事件の起こった昭和十一年、満州(現中国東北地区)国実業部次長として満州に渡った。満州では、資源開発にあたる。
昭和十二年からは、満州産業開発五カ年計画を推進し、東条英機、星野直樹、松岡洋右、鮎川義介とともに「二キ三スケ」と呼ばれる満州国支配の実力者となった。
岸は、昭和十四年十月帰国途中、大連港でこう豪語した。
「満州国の産業開発は、わたしの描いた作品である」
これ以後、岸は「満州の妖怪」と呼ばれる。
昭和十六年に、東条内閣の商工大臣として入閣。東条内閣の閣僚として「開戦」の宣戦布告に署名する。
敗戦後の昭和二十年九月には、A級戦犯容疑で逮捕。ところが、岸は、昭和二十三年十二月二十四日に、不起訴となり釈放されて不思議がられていた。岸は答えている。
「吉田内閣時代の昭和二十二年二月一日のいわゆる2.1ゼネストを、マッカーサー元帥が止めただろう。アメリカの共和党を中心とした国会議員の中では、大変な問題だった。これをほっといたら、日本は大変な内乱になるという危機感を抱いていた。
吉田茂で、はたして日本を平和国家として独立させてやっていけるのかどうかというのが、アメリカの国会で問題になった。その時、おれは巣鴨プリズンにおったんだ。吉田の後を誰にやらすかということだが、鳩山一郎や河野一郎は優秀だけども、方向性が頼りない。どっちに向くかわからない。政治家としての判断はいいけども、行政的統治能力は薄い。そこで、おれに目をつけたんだろう。
アメリカは、おれをジッと見ていた。おれは、極東裁判で一つも尋問されてない。おれ自身、『なんで、ほかの戦犯のようにやられないんだろう』という疑問は、多少持っていた。そこへ、だんだんとアメリカでも吉田に対する批判が高まってきた。今は進駐軍がいるからいいけども、やがて進駐軍が日本から引き揚げた時、左右の対決のバランスが崩れるかもわからない。そこで、保守のリーダーとしておれに白羽の矢が立てられ、早々と釈放されたんだ」
安倍晋三が、東京裁判に否定的なのは、満州を岸ファミリーが牛耳ったことに深い関わりがある。安倍が、「戦後70年談話」までアジアを侵略したことを認めることにためらい続けたのも、岸信介の動きと関わりがあろう。さらに、先の大戦についての考えも、岸の影響を受けている。
岸は、安倍晋三に語っていた。
「この前の世界大戦は、日本は、国際法上、決して悪くはない。ただ、国民には詫びなくてはいけない。日本を敗戦に追いこんだのだから」
憲法9条では、朝鮮戦争に際して日本は何もできない。そうこうしているうちに、マッカーサー元帥はトルーマン大統領によってクビを切られてしまった。
安倍が、現憲法は、あくまでGHQ(連合軍最高司令官総司令部)に押し付けられたと言い続けたのも、岸の影響と言えよう。
岸は、昭和三十二年二月、ついに総理に就任した。
〈文中敬称略/連載(2)に続く〉