自動車業界に衝撃が走っている。
トヨタが究極のハイブリット車「クラウン」新モデルを発表したのが15日。それを追うように21日、中国のBYD(比亜迪)がEVで日本上陸することを発表したからだ。しかも、テスラやヒュンダイのようなネット販売ではなく、桁違いの資金と人材を必要とする販売代理店方式で日本市場へ進出するという。
若者に夢を創る(Build Your Dreams)を社名に1995年に携帯電話用充電池の製造から出発したBYDは、今年6月時点での時価総額は約20兆円。トップのテスラの約100兆円、2位のトヨタ自動車の35兆円に次ぐ第3位と知れば、いかに投資家から高い評価を受けているかが理解できるだろう。
このことは、自動車の歴史を作ってきたフォード、GM、フォルクスワーゲン(VW)、メルセデスさえかなわない成長力を秘めた企業という証でもある。
自動車にまったく縁のなかった小さな携帯電池会社が、どうして世界最強のエンジン生み出してきたトヨタに戦いを挑むまでの自動車メーカーになったのか。実に不思議で、興味深い。
BYDを率いる王伝福氏は中国の貧困地域として知られた安徽省の出身。1966年に貧しい農家の二男に生まれ、苦学して中南工業大学に入った。創業家3代目の御曹司として生まれ、慶応大法学部、米国ハブソン大で経営学を学んで帝王学を修めたトヨタの豊田章男氏とは対照的である。
大学で蓄電池を学んだ王氏は卒業後、国の研究機関の蓄電池研究開発室に就き、そのリーダーを経て、携帯電話ブームの到来にビジネスチャンスがあると確信。1995年に携帯電話向け電池の製造会社(BYD)を立ち上げた。
当時、世界を席巻していた携帯電話メーカーは日米欧だった。しかし、製造はほとんど中国に置いた。すると、コピーメーカーが3000を超えるほど生まれ、粗悪品が蔓延した。
こうした状況の中、BYDは「品質」で革命を起こし、アッと言う間に中国のトップ電池メーカーに躍り出た。やがて充電池では日米欧をもリードする。このころ、携帯電話の勢いを追うように、中国で勃興したのが自動車産業だった。
そもそも中国で自動車産業が始まったのは、改革開放を打ち出した鄧小平がさらなる経済活性化を目指し、北京から武漢、深セン、珠海、上海などの産業拠点を視察して説いた「南巡講話」(1992年)がきっかけだった。
90年代初頭に中国政府は「三大三小二微」(フルラインメーカー3社、中堅車両メーカー3社、小型車メーカー2社体制を確立する国家目標)を策定し、世界の自動車メーカーを誘致、現地企業の提携が進んだ。三大には、早くから中国市場に積極的だったVWが2拠点とシトロエン。三小はクライスラー、ダイハツ、プジョー。二微はスズキとダイハツといった具合。
同時に、地方政府が自動車産業の発展に乗り遅れまいと自動車メーカーの育成を促したから、様々な企業が続々とこれに参入して、中国がWTO(世界貿易機関)へ加盟した2001年ごろにはアッと言う間に100社を超えた。
実態は製造ノウハウがゼロからのスタートなので、出来上がったモノは部品の寄せ集めとコピーだらけの粗悪品が多かった。当時、中国の都市を歩くと故障やエンストで道路を占拠している場面に度々遭遇したものだ。それでも10〜15%の経済成長を続けていた時期だから、地方ではエンジンが異音を出そうが、黒煙を吐き続けるような車でも大いに売れた。
これを、ビジネスチャンスと見たのが携帯電話用電池の高品質化で成功した王氏である。
王氏は2005年、自動車製造に参入するも、技術不足で完全に失敗。だが日本の自動車用金型メーカーを買収して、高品質化のシステムを吸収すると、それと同時に、エンジン自動車の製造をスッパリやめて、当時はまだ先が見えなかったEVに切り替えた。
電池研究一本槍できた王氏だからできた英断である。BYD社は商用EV車に商機を見出し、まずはEVバス、EVタクシーが中国を席巻した。今や日本の佐川急便や地方のバス会社がBYD社のEV車を大量に輸入している。
そしてこのほど、人気ラインのSUVを日本市場に投入する。日本のメーカーは「お手並み拝見」と侮っている時間はない。ドイツからフォルクスワーゲン社長の更迭のニュースが届いた。
(団勇人・ジャーナリスト)
(写真はBYD本社のある広東省深セン)