翻訳家に公認会計士…意外すぎるセカンドキャリアで大成功した元プロ野球選手たち
今から20年前の2004年、NPB史上最年少となる当時15歳で阪神から指名(ドラフト8巡目)された辻本賢人。一軍のマウンドに上がることなく09年に退団し、その後は米独立リーグやマイナーリーグを経て1...
今から20年前の2004年、NPB史上最年少となる当時15歳で阪神から指名(ドラフト8巡目)された辻本賢人。一軍のマウンドに上がることなく09年に退団し、その後は米独立リーグやマイナーリーグを経て1...
翌年の2月15日、長嶋は東京駅旧東海道線の15番ホームに立った。夜行列車である。立大の野球部員とともに、南海入りを決めていた杉浦が激励した。キャンプ地・明石までは12時間の長旅だ。 到着した当日...
1981年5月8日、新日本プロレスの川崎市体育館大会に現れた、全日本プロレスのトップ外国人アブドーラ・ザ・ブッチャー。アントニオ猪木が提唱する世界統一構想IWGPに賛同したという建前だったが、実際に...
1980年、アントニオ猪木は異種格闘技戦を打ち切って、スタン・ハンセンという新ライバルとの抗争で純プロレスに軸足を戻し、ジャイアント馬場は愛弟子ジャンボ鶴田時代の足音を聞きつつ、3度目のNWA世界ヘ...
力道山亡きあと、1970年代の日本プロレス界を牽引したジャイアント馬場とアントニオ猪木は、その最後の年の79年を、7年8カ月ぶりにコンビ復活、馬場は2度目のNWA世界ヘビー級王座奪取、猪木は日本人初...
1979年8月26日、東京スポーツ新聞社創立20周年記念事業として日本武道館で開催された「プロレス夢のオールスター戦」では、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲が7年8カ月ぶりに実現した。 ...
1971年12月7日に札幌中島スポーツセンターでドリー&テリーのザ・ファンクスに敗れて以来、7年8カ月ぶりにジャイアント馬場とアントニオ猪木のBI砲が復活した79年8月26日、日本武道館での「プロレ...
19年から難病「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」を患い闘病中だった「燃える闘魂」アントニオ猪木が、10月1日朝に亡くなった。享年79。最後まで、病気と闘い続け、8月には新会社も設立するなど...
1979年3月8日、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の会談が東京・六本木の中華店「梅紅」で実現した。2人で同じテーブルに着くのは71年11月に日本プロレスの改革について話し合って以来、実に7年5カ月...
日本プロレス界は73年4月に老舗の日本プロレスが崩壊して国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの3団体時代になり、新日本vs全日本&国際という形で展開されていた。 新日本と国際は、アントニ...